雨はいつだって、憂鬱だ。

Tap,Tap,Tap

 

 

「ああ、ついてない…」
私は駆け込んだ美容院の軒先、びしょ濡れになってしまったカーディガンを脱ぎながら憎しみを込めて往来を睨んだ。急に日光がさえぎられたかと思えば、まさにバケツをひっくりかえしたようなこの雨。南国じゃないんだから、勘弁してほしい。あと10分だけまってくれれば、家までたどり着けたのに。私は文句を連ねながら、定休日の張り紙が張ってあるシャッターに汚れるのも構わず背中をあずけた。素足の足にはいたサンダルに砂利が張り付いて心底気持ち悪い。
ついてない事は、重なれば重なるものだ。朝、人身事故のせいで遅れた電車。試験に遅れて、事情を話して時間を延ばしてもらった。けれど焦る気持ちが集中力をかき消してどうも納得のいかない出来。お昼ごはん、所持金が10円たりなくて食べたかったAランチをあきらめてカレー。ちょっと気になってた山田くんに、彼女ができた事をしる。先週休んだ授業、今日がレポート提出日だったことを知らなくて頼み込んで明日にのばしてもらう。そして、今この状況。
「天気予報で雨降るなんて言ってなかったじゃん…」
早く帰ってレポートを仕上げなきゃならないのに。バシャバシャと水音を立てて、目の前を駆け抜けていくサラリーマンを目で追いながら、私は何度目になるのかももうわからないようなため息をついた。今さら走ったって、家に帰る途中で雨が止んでしまったらそれこそショックだ。だったら、ここでもう少し――――、

そう心に決めてふと視線を右に向けたその時。不意に黒い人影が目前に飛び込んできて、私は思わず咄嗟に後ずさりした。その拍子にサンダルのかかとがシャッターにあたって、ガンという大きな音を響かせる。私はその音に小さく肩をすくめて、それから軒先に飛び込んできた黒い影、そう、この雨宿り、突然増えたもうひとりのお客さんの足元にちらりと視線をおくった。

「ついてねえ…」

と、うんざりした音色を含む呟きが上のほうから聞こえてきて、私は反射的に視線を上げた。その時視界に入ったその人の顔に、はじめて相手が自分と同じような年ごろの人だという事を知って、何故だかひどくほっとする。真っ黒の髪の毛と、黒いポロシャツがなんだか印象的で、視線を外しても瞼の裏にのこるような、そんな人だった。
(うん、ついてない)
心の中であいづちを打ちながら、ああ、第一声がわたしと全く同じじゃない。と思うとおかしくて、やっぱり心の中でクスクス笑った。そのおかげで、さっきまでのイライラしていた気持ちが少しだけ和らぐのを感じる。軒下の狭い空間に2人きりという息苦しさに、不思議なほどに、気まずさはかんじなかった。

けれど雨は相変わらず、容赦なくアスファルトを打ち続けている。

往来を駆けていく人、また、人。

1人っきりと1人っきりじゃない状況は、空気の流れに僅かな差異をもたらす。のだ、どうやら。ということに今1人、雨の中を足音響かせて走り抜けていく高校生を目でおいながら気付いてしまう。そうやって空を見上げるふりをして横目で隣のひとを盗み見たら、時計をしきりに気にしていて。ああ、待ち合わせをしているのかな、と私はこっそり胸の内を探ってみたりする。

「あの、」

ちょうど横目でジロジロみていたその時、不意にその人が口を開いて私は飛び上がらんばかりにびっくりした。この場所には私とその人とふたりっきりしかいないという事をしっていながら、私はキョロキョロしてから、大分間をおいて
「は、はい?」
と挙動不審気味に答える。
「…楓町って、遠いですか?」
私の答えにその人はほっとした様な表情をして、そのくせ笑いを堪えてでもいるようにお腹の辺りを手で押さえながら問いを重ねた。
「楓町?…は、そうですね、歩いて10分くらいは…」
「10分か、微妙、ずぶ濡れだな…」
「あ、あのう、お急ぎですか?」
「え?あ、いや、そういうわけでもないんですけど、」
その人はそこで一旦セリフを切って、屋根の外にそっと手を伸ばすと同時に空を見上げる仕草をする。私はその掌にあたってはねる水滴、腕、肩、首、それから顔、とゆっくりと視線を移動させる。
「やみそうにねえなと思って」
そう続けて、空を見上げるその瞳を僅かに細めたその表情を、なんとなく直視できなくなった私は目をそらした。その時、ゆるりとした風が吹いてきて屋根の下で停滞していた空気がわずかに流れた。

(……せっけんの、匂い)

そうだ、せっけんだ。泡がぶくぶくたつような柔らかな石鹸の香りが雨で湿気た鼻の先をくすぐって、私は思わず微笑んでしまう。

(いい、におい)

お風呂に入ったばかりなのだろうか。じゃあやっぱり待ち合わせは彼女で、きっと急いでいるに違いない。そして、この人の彼女なんだからきっと可愛い人に違いない、とぼんやりと頭の中で考える。

「あのう、私これから家帰るだけなんで、別に濡れてもいいから…、あそこのコンビニで傘買ってきましょうか?」
まるっきり親切心からの私の申し出に、その人はすごく心外だ、という顔をして振り返った。
「いや、それなら俺が買ってくるし」
「…だって、お風呂はいったばっかりでしょう?もったいないじゃない」
「…は、なんで知って…」
「だって、石鹸の香りがする」
たまらずくすくすと笑ったら、その人はすごく情けなさそうな顔して目をそらした。頭をかくその仕草がなんとなく子供じみていておかしくて、余計笑ったら
「うるせえ」
と小さく睨まれて、申し訳ないけれど変な親近感を感じてしまう。
「じゃ、買ってくるね」
「まて、って」
言い終わるが早いか雨の中に飛び出していこうとした私は、静止の一言と咄嗟に掴まれた腕の力で屋根の下に引き戻される。
「…なんで、」
掴まれた腕をやんわりと引き離しながら、私は不満げにその人を見上げた。引き離された腕をなんとなくもてあそびながら、その人はひどく気まずそうに身を縮めた。

「…ないんだよ、………金が」

「………ぷ」
なんだ、そんなこと。思わず笑い飛ばしてしまったら、ムッとしたような表情で反らしていた視線を戻してきて、
「んだよ、笑うんじゃねえよバカ」
と怒った。
「だって、そんな真剣に悩むことじゃないじゃない」
「悩むことだろ、金なかったら始まんねえじゃねえか」
「ていうかお金ない、って、これからどっか行くんじゃないの…?」
「ダチに金貸してて、今からそいつんち行くから…、それ期待してたんだよ」
しょうがねえだろ。拗ねたように口を尖らせて、足元に出来た水たまりをばしゃりと跳ねさせた。
飛び散る水しぶきを見下ろしながら、思った。

(…あれ、彼女の家にいくんじゃないんだ…)

雨の下。くっきり切り取られたようなその空間。ほんわりと石鹸の香りが身体を包み込むように漂っていて、洗いたてほやほやのタオルケットにうずもれているような安心感がする。ずっと、こうしたいと、そう思ってしまうような。

「そんなん気にしなくていいから、買ってくるよ」
「…いや、なんかいやだ」
「なにそれ…」
「俺がいやなんだよ。いいじゃねえか、雨やむまで待とうぜ。……どうせそのつもりだったんだろ?」
「そうだけど」
「じゃ、のんびりしようぜ。俺は三上。よろしく」
「あ、です。よろしくお願いします」
丁寧に、けれどぎくしゃくとお互い頭を下げて、それから再び会った目線で気恥ずかしさに笑った。

トタン屋根をリズミカルに叩く雨の音が、バックグラウンドミュージック。

(雨がもうすこしだけ、続くといい)

 

 

Tap,Tap,Tap

心に響く、この上なく優しい雨の音が。

 

 

 

(2005.06.08)

お わ り