それは、いつもの朝の光景。

 

「いってきまーす」

三上は扉の向こうにそう言い残すと、返事を待たずに音をたてて扉を閉めた。それからすう、と一呼吸朝の空気を吸い込んで、リズミカルに玄関の石段を降りた。
チャリン、という鈴の音に視線をあげれば向かいの塀の上、横柄に欠伸をかく猫と目があって。
ようデブ、と機嫌も上々に声なんかかけながら、家の横に止めてあったチャリの籠に鞄を放り投げる。
そしてポケットの中から鍵を無造作に取り出して、わずかにかがんだその時。

……タ、タ、タ、タ、タ

という地面を蹴る音が遠くから近づいてきて、三上はわずかに反応する。そしてその音を確かめるように、顔はチャリの方に落としたまま目だけを前の道路に向けた。
タ、タ、タ、タ、タ!
近づいてくるにつれ、その音はわずかに濁音を伴う。
ダ、ダ、ダ、ダ、ダ!
あ、という一瞬のうちに目前を、デブ猫と三上の間を、1人の少女が脇目もふらずに駆け抜けていく。

タ、タ、タ、タ、タ……

遠くなる少女の背中を見送った後、三上は自転車にまたがった。
「うるせえ」
さっきから何か言いたげな視線をよこすデブ猫に吐き捨てて、地面を蹴る。

 

そう、それは、いつもの朝の光景。

 

 

ちゃりんこ 
  
  気になるかならないかは、また別のはなし

 

 

だから、中西が真剣な顔で「お前、気になる奴いるか?」と問い掛けてきた時にぱっと頭に浮かんだのが、朝のあいつだとしてもそれは全然下心とかがあるわけじゃなくて。ていうか、むしろあるわけない。顔だってまともに見たことない相手に、下心だって?ていうか、下心って、なんだそれ…!あ〜、つまり下心っていうのはだな…、って、なに真面目に下心について考えてんだ、俺!
「…え、いるのかよ!まじかよ!」
「は、…は?ちょまっ、俺まだ何も言ってねえ!し、いねえよ…!」
「…や、1人で赤面したりしてる奴にそんなこと言われても説得力が…」
「……!」
「なんだよ、三上、すみにおけねえなあ、誰なの」
身をのりだしてくる中西から距離をとろうと身体を後方にぐいとそらす。
「だーかーらー、いねえっつの!」
純粋な意味で『気になる』奴、だなんて言ったって信じるやつがいるか?だいたい中西にこういう話をしたら最後、次の日…、いや次の時間にはもうクラス全員周知の事実になってしまっているのだ。なおさら言えるはずない。
断固とした姿勢で拒むと、中西が僅かにのりだした身体を引いた。
そして次の瞬間満面の笑みを浮かべる中西に、三上はひやりとした汗が背中を伝うのをかんじた。
「三上、美術室のあの胸像壊したのお前だって…、」

 

そして結局まるめこまれるのは、いつものこと。

 

「で?その女の子、どこの学校なの?」
「あ〜、多分武蔵森…、の女子部」
「はあ!?」
「……なんだよ」
「ならチャリ乗せてやれよ!ついでじゃねえか!」
「…ついで、て。おかしいだろ。あきらかに引かれるだろ」
「あほか!女の子は二人乗りには憧れをもってるもんなんだ!」
「や、それ多分ただの誤解だし。それにあいつ重そうだから…、むり。疲れる」
「ええー!何今の、スポーツに日々汗を掻く少年のセリフ!?」
「あ〜、うるせえ。はいこの話おわり」
「てかその子、かわいいの?」
「……、だから何べんもいってんじゃねえか…、顔まともにみたことねえって」
「みようよ!まともにみようよ!」
「ハイハイ。今度ね。つ〜か俺の動体視力じゃ限界がありますけど」
中西の不満げな表情に投げやりに笑い返してみせる。それから視線をふっと落として机の木目に目線を走らせると、心の中で呟いた。

(嘘です。顔、みたことあります。……わりとふつうの顔でした)

 

それは、雨の日だった。いや、もしかしたら台風の日だったのかもしれない。ともかく、窓に打ちつける雨粒がうるさいほどの、川が濁流でごうごううねるほどの、そんな大雨の日だった。
ただの雨くらいだったなら気にもせずチャリで行くところだったが、その日ばかりはあまりの雨の激しさにバスを選んだのだ。雨の音の向こうで、雨の日はバスが混むからいやだ、とかいう文句をうっせえな、と思いつつ聞いていた。やがてバスがきて、一番後ろに並んでいた自分が乗ってバスの扉が閉まろうとしたその瞬間、水を蹴る大きな音が近づいてきたかと思うと、ドアを押しのけるようにして誰かが飛び込んできた。顔をあげた運転手がははは、と湿った空気を吹き飛ばすように朗らかに笑った。
「やあ、間に合ったな」
飛び込んできたそいつは、前髪から雨水をしたたらせながら、にこりと運転手に微笑み返した。

それが朝のあいつだったと知ったのは、鞄についている猫のキーホルダーからだった。
あのデブ猫とそっくりの、キーホルダーがバスが揺れるたびに上下に触れた。
まるであのデブ猫からからかわれているような気がして、
「うるせえ」
と小さく口の中で呟いたら、俯いていたそいつがぱっと驚いた顔をあげた。
合った視線、困った俺は、視線をそらした。

 

ただ、それだけのはなし。

 

1日86400秒のうちの、たった3秒かそこらすれ違うだけの赤の他人。とかいいつつも意識してしまうのは、あいつが何故か毎朝凄い勢いではしっていくことと、日常出会う女という人種の少なさからだろう。それにしたって、少し余裕をもって家を出るとかできないのだろうか。他人事ながら気になってしまう。だって、1分やそこらの違いだろ?

それに、毎回そんなギリギリ滑り込みセーフなんていうラッキーなことになるはずもないのだ。

ざまあみろ、と一瞬思ったのは、ある晴れた、乾いた南風が心地よく頬を撫でる5月半ばの朝だった。
ようやく聞こえてきた足音に、俺は時報きっかりにあわせた腕時計を睨んだ。
(15秒遅い…)
通り過ぎていくそいつを見送ってからいつも通りチャリを漕ぎ出すと、向かいの塀でデブ猫がゴロゴロと喉を鳴らした。それを無言で睨みつけて、あいつが駆け抜けていった方向に針路を取った。
―――さてあいつは、バスに間に合っただろうか?

住宅街を抜け大通りに出て、自転車のスピードを心持緩める。目の前の交差点を左に折れてすぐのところに、そのバス停はある。間に合わなかったに100円!と相手のいないカケをしつつペダルを踏む足に力を込める。グングン近づく交差点。

果たして、結果は。

(…っし!100円ゲット!)

角を曲がって開けた視界のむこう、バス停にひとり取り残されたようにポツンとたたずむあいつがいて、俺は心の中で小さくガッツポーズをする。
のろのろとペダルをこぎながらあっという間に縮まる距離。そして何事もなく、すーっと通り過ぎるそのつもりだった。
けれどなんのイタズラかずっと俯いたままだったそいつが、すれ違うその瞬間にぱっと顔をあげて、一瞬、そうほんとうにほんの一瞬目があってしまって。
(……!)

射すくめるような、その視線に。

―――ペダルを漕ぐ足が、止まった。
しかし慣性の法則、とかいうやつで進み続ける自転車は、すれ違った場所から3メートルくらいのところでよろよろと停止した。そして、おそるおおそるうしろを振り返ってみれば、さっきと同じ視線が変わらず自分に注がれていた。

ぎょっとしたのも束の間、しかし負けじと俺は無言でそれを睨み返した。けれど悲しいかな、それがもったのはほんの数秒で。そいつの鞄についているデブ猫のキーホルダーが目にはいってしまった瞬間、身体の力がぬける。なんだか馬鹿馬鹿しくなって、視線を一瞬はずしてから大げさに肩をすくめてみせた。悔し紛れに舌打ちをひとつ。

「…のりたかったら、のれば」
途端にぱあっと、相手の顔に広がる満面の笑顔。
「ありがとう!」
他意のないその言葉に、三上は渋い顔で頷き返した。

まさか本当に、こういう事態になろうとは。

「ねえあなた…、二人乗り下手だね」
「…うっせえ!二人乗りなんてしたことねえんだ、よ!」
気をぬけばコントロールがきかなくなって車道へ飛び出していってしまいそうに、よろよろ前進する車体を辛うじて支えながら、むっとして言い返す。
「ふ〜ん」
「つーか、おまえ、重っ…!」
思わず口をついて出てしまった本音に、しまった、と思うも遅し背中の薄い皮をぎゅっと抓られる。
「ってえええ!」
「失礼なこというから」
「あのさあ、お前、乗せてもらってるんだから少しは大人しくできねえの」
「あら、乗せてもらってるのと、大人しくしている事に何か関連性はあるの?」
「……ッ!」
返す言葉につまった三上を、あざ笑うようにそいつは鼻歌を口ずさむ。

ふざけんな、っつーの……!っつーか、普通通りすがりの人間と二人乗りしよう、とか思わねえだろ?そして万に一つ思ったとしても実際それをやって、しかも後で文句いうか?

考えらんねえ!

とんだ奴を拾ってしまった、と後悔の念に襲われるが今更遅いというもので。捨てていくわけにもいくまい。

ガタン!と腹立ちまぎれに乱暴に段差を登ってみれば、
「ちょっと!もっと丁寧に登ってよ、痔になったらどうしてくれんの!」
ドン、とすかさず背中を叩かれて抗議の声が帰ってくる。
小気味いい、といえなくもないそのやり取りに、なんだかちょっとした楽しみを覚えてしまって。
「俺のせいじゃねえだろ。…つーか、痔とかいうんじゃねえ」
「あ、今赤信号!」
「いんだよ、車こねえんだから」
「そういう問題じゃ、ない!」
真剣に抗議してくるのが面白くて、はははは!と笑い返してやったその時、死角になった角から犬が飛び出してきて、
「おわっ!っ、ぶねえ!」
危うい所で急ブレーキ。
大丈夫か?と後をふりむけば、言わんこっちゃないという顔で睨まれて、仕方なく首をすくめた。

 

気がつけば、学校までの、唯一にして最大の難関までやってきていた。
急な上り坂を登って、下ればそこはもう学校だ。

「お前、降りろ」
「…お前じゃない、
「あ〜、はいはい。じゃあ
じゃあって何!と憤慨しながらも、と名乗ったそいつは素直に荷台からするりと降りた。
「お前さあ、なんでいつもあんなギリギリなわけ?」
だからお前じゃない、ってば、とぶつぶつ言いながら、坂道をゆっくりと登り始める。
「記録に挑戦してるの」
「…記録?」
「うん。私、陸上部だから」
「…へえ」
なるほど、と納得しかけて一瞬、
「うそだよ」
と間髪いれずに切り返されて思わずがくッとなる。
「…あのなあ!」
「まさか信じるとは思わなかったよ。ごめん、ただたんにいつも寝坊してるだけ」
はははは、と朗らかに笑われて、怒るというよりもむしろ妙に情けない気分になる。
(なんだ、こいつ…)
掴めねえやつ、と半分呆れながらもその悪気のない横顔に、春の風のような心地良さをかんじてしまう。
「1分だけ早く起きる、とかできねえの」
「…できないんだよね、これが」
「そういうの、学習能力ない、っていうんだぜ」

「うるさいな、」
振り向いたその、むっとした表情がなんだか可笑しくて、声をたてて笑ってやったらキッと睨み返される。
(学習能力がないのは俺、だな…)

坂道のてっぺんまで上り詰めて、ふう、と二人同時に息をつく。思わず顔を見合わせて、ぷっと吹き出した。
「いくぞ」
下り坂は、下るだけだ。
坂道にそって植えられた桜の木が青々しい新緑を風にさらしているのを視界におさめて、三上はアスファルトを蹴った。あとはもう、重力と二人分の重さにまかせるだけでいい。
車体は、風を掻き分けてビュンビュンと進んでいく。
「やっぱお前、重っ!」
「重くないっ!」
「だって、いつもより早え〜ぞ、これ!」
加速するスピード。ぐんぐん追い抜いていく登校途中の学生の背中。
「ちょっと、ブレーキ!」
少し怯えたような声が後から聞こえて、三上は何故だか満足感を覚える。
そして当然のごとくブレーキの要求は無視して、頬を撫でる風に目を細めた。
やがてそのまま二人を乗せた自転車は校門にするりと滑り込んで、
キキキキ―――ッ!という盛大な音を立てて植え込みの直前で停止した。

 

 

乗せてやったんだ、お礼のひとつぐらい聴かせてもらったって良くないか?それなのにそいつときたら、「ばかッ!」と捨て台詞をひとつ、鞄をつかむと女子部の方へ走り去っていってしまった。

おいおい、それはないんじゃねえか。
(近頃の女ってのは、常識をしらない)
腕組みしてが走り去って行った方向をじっと睨んでいたら、ポンと無造作に肩を叩かれた。

「…げ」
振り返れば満面の笑みの中西くんが、
「み〜た〜よ〜」
迫ってくる顔にエルボーを食らわせて、ちゃり置き場に向かう。

今日はいったい朝からなんなんだ!

汗ぐっしょりで肌にはりつくシャツが気持ち悪い。というか、なんだって俺がこんな羽目に……

 

「気になる奴いるか?」
ああ、気になるさ!気になりまくるさ!気になるだろ普通!気にならないわけあるか!
むかつくほど真っ青な空にむかってヤケクソで叫んでやったら、なんだか妙にすっきりして額の汗をぬぐった。

 

風が、心地よかった。

 

 

(2005.04.25)

お わ り