20040629
あっちゃんが明日、帰ってくるらしいわよ。
お母さんが何故か浮かれた調子で、玄関で靴を脱いでいる私の頭の上からそう報告した。「おかえり」もなし?私は眉をひそめる。けれど、『あっちゃん』というその懐かしい響きのこもった名前に、私はほろ苦さを覚えながらスリッパを履いた。
この間かえってきたのはお正月だったから、半年ぶり、か。お正月の時にちらりと見たあっちゃんの顔を頭の中で思い出す。なぜか可笑しくなって、ひとりでクスクスと忍び笑いをした。自分の部屋のドアをほんの少しだけ開けて、細い隙間からスルリと中へ体を滑り込ませると、そのまままっすぐベッドに向かって体を投げ出した。
「あっちゃん、か…」
そう、お正月の時も、一言も言葉を交わさなかった。いつからだろう、微妙な壁が私とあっちゃんの間にできてしまったのは。小学校の中学年くらいまでは、毎日のように遊んでいた気がする。あっちゃん、あっちゃん、と私はいっつもあっちゃんの後ろを追い掛け回していたっけ。あっちゃんはお隣さんで、いわゆる幼馴染、という間がらだった。それがなぜだろう、今となっては道端で出会っても、こんにちわ、とだけ言って通り過ぎるような関係になってしまったのは。
「…わたしのせい、だよね…」
仰向けになって天井を凝視しながら、私は軽い後悔を覚えた。完全に忘れてしまえればいい、でもこうやってあっちゃんは忘れた頃に私の前に現われる。それはお隣さんの宿命だ。こういう風にあっちゃんを思い出す度、私はいつだって後ろめたい気分になるというのに。
離れていくきっかけを作ったのは、多分私。たしか、あれは4年生くらいだったと思う。仲がよかったあっちゃんとの関係を同級生にからかわれて、私はすごく恥かしかったし、心地が悪かった。あっちゃんは気にすんな、と言って笑ったけど、私はそんなに強くはなかった。からかわれるの嫌だ、と思ったのだ。だから私は故意にあっちゃんとの間に距離を作った。学校でみんなの目を気にして「三上くん」と呼んだ時のあっちゃんの、呆れたような傷ついたような表情が今でも忘れられない。
そして、「三上くん」という代名詞に私が慣れてきたころ、あっちゃんはこの街を出て行った。私の心のわだかまりは、その頃からずっと消えないまま。
せめて話かけられたら、と思う。でも私にはそれができない。だって、あっちゃんのことをなんと呼べばいいのかわらかないのだ。小学校の同級生の前で使う、「三上くん」?それとも家族の中で使う、「あっちゃん」?それとも…?
私は天井に向かって、大きなため息をついた。
あっちゃんが帰ってきたらしい、と聞いてから4日が過ぎた。らしい、というのはつまり私は一度も彼の姿を見ていないから。でも、毎日のように食卓にあがるあっちゃんの話題から推測するに、あっちゃんはとても元気そうだ。けれどサッカー部の合宿とやらで、またすぐに出て行ってしまうという事も聞き及んでいた。忙しい人だ、私と違って。私はずっと同じところにいるのに、あっちゃんはどんどん遠く離れていってしまう。
次の日。夏休みだからといって家でグタグタしている私を見兼ねて、お母さんが財布とメモを無理矢理に押し付けた。買い物に行って来い、という。えー、めんどくさい!なんて文句を言ったら、またグチグチと言われるに違いない、と思って私は二つ返事で承諾した。グチグチ言われるだけならまだいい、でもそこであっちゃんなんかが持ち出されてきた時にはたまらない。あっけなく承諾されて、ちょっと肩透かしを食らったかんじのお母さんをその場に置き去りにして、私は暑くて眩暈のするような表に出た。
「あっつ…」
クーラーで冷えた体も瞬時にうだるような暑さに飲み込まれて、汗が流れる。早く涼しい所へ、と思って足早に歩いたはずが、近所のスーパーマーケットについてみたらいつもの倍は時間がかかっていた。…なんで?不思議なことも、あるものだ。なんて思いながら、できるだけ時間をかけて買い物をした。
買い物リストの全てのものを買ったことをもう一度最後に確認して、スーパーの涼しさに未練を残しながらも自動ドアをくぐった。ウィ――ンと静かな音で、背後の自動ドアが閉まる。突然の暑さにクラっとしながら家への道を一歩踏み出した時、左側に誰かの視線をかんじて何気なくそちらに目をやった。
「…よう」
私は思わず目を丸くした。
あっちゃんが、あのあっちゃんが、自転車のカゴにスーパーの袋をのっけて、そこに立っていたから。
「…ひさしぶり」
私はどう反応していいかわからずに、あっちゃんから目をそらしてそう言った。
「買い物?」
あっちゃんは私の買い物袋をちらりと見て言った。…挨拶以上の会話だ。まったく、ひさしぶりの。私は気のきいた返答をしなけりゃいけない、と思って頭をフル回転させたけれど、結局出てきた言葉は
「うん」
の二文字だけだった。少し、落ち込んだ。
「…そっちも?」
「おう」
沈黙が、流れる。
私はこういう気まずい空気がひどく苦手だ。チャンスかもしれない、壁を取り払う、チャンス。最初はそう思った。だけどこの気まずい沈黙に、私の弱気な心は早くもギブアップしてしまった。やっぱり会話がはずむなんてのは無理だ、私は諦めて、「じゃあ、」とその場を後にしようとした。けれど、
「のせてく?」
…それ。とあっちゃんがアゴで私の買い物袋をさした。私は特に断る理由もなかったから、うん、と頷いて、手を差し出したあっちゃんに買い物袋を渡した。その時に少しだけ触れたあっちゃんの手の体温に、私は意味もなくドキリとした。
私の買い物袋をかごにのっけてすぐに、自転車をひいてあっちゃんは歩きだした。私はその後ろを少しおくれ気味に追った。横断歩道の信号が赤になって、あっちゃんがとまる。私も立ち止まった。
「元気?」
あっちゃんが、信号を見つめながら言った。
「…うん」
あっちゃんは?と聞き返そうとして、私は一瞬ためらった。だって、なんて呼んでいいかわからないから。あっちゃん、と呼ぶ資格が私にはない気がするし、三上くん、とも今更よべない。さんざん心の中で葛藤した挙句、私は妥協案をとった。
「東京は、どう?」
あっちゃんが、ぷっと吹きだした。そして信号から私に視線をうつす。
「ここも東京だろ」
私もつられて笑いながら、
「でも田舎じゃん、武蔵森のある方のががちょこっと都会でしょ?」
と口をとがらせた。
信号が青になり、ゆっくりと歩き出すあっちゃんの横を私も真似してゆっくりと歩く。
「ちょこっと、な。でも、あんまかわんねーよ」
しかし、あっちーな。うわごとのように、あっちゃんが文句を言った。
「そうね」
うちにアイスがあったよ、ガリガリくん。あっちゃんはガリガリくんが好きだったな、ということを思い出して何気なくそれを口にした。
「まじ?食いてえ、ガリガリくん」
目を輝かしてガリガリくんに反応するあっちゃんを見て、変わってないなあ、と私は嬉しくなった。遠くに行ってしまったあっちゃんが、実はもっと近いところにいるんじゃないか、っていう淡い期待を抱いて。
「うちに取りにおいでよ。あげる」
あっちゃんは私の言葉にさんきゅう、と短く言って、それからの家行くの久しぶりだな。と小さく言った。
「…うん」
、と名前を呼ばれて、昔と変わらない調子でそう呼ばれて、私はいたたまれなくなる。
それから私の家まで、私とあっちゃんはまるで今までのブランクなんてなかった調子で、すごく自然におしゃべりしながら歩いた。そう、あのまま、4年生の前半までの仲良しな関係がずっと続いてきた、そんなかんじで。約束どおりガリガリくんをあげるために、あっちゃんに私の家にあがってもらった。あいにく、お母さんはどこかに出かけていって留守だった。
家の中をものめずらしそうに眺めるあっちゃんに、私は冷凍庫をあさりながら話かけた。
「何味がいいー?あっちゃ…」
しまった、と思った。油断していた。今までがんばって抑制していたその呼び名が口からすべってしまった。あっちゃん、その名前が口の中に残ってザラつくような感じがした。
背後で静かな足音が聞こえて、あっちゃんが台所に入ってきたことを知る。私は振り向けずに、空けたままの冷凍庫の中を何を見るともなく凝視していた。
「お前さあ、」
あっちゃんが呆れた声で言った。顔は見えない、でも声の調子でそんな表情をしているんだ、となんとなくわかる。
「俺の名前呼べるんじゃねーか」
「え…?」
意外な言葉に、私はあっちゃんを振り返った。
あっちゃんは、ちょっといたずらっこっぽく、笑っていた。
「お前、俺の名前よばねえから」
忘れてるのかと思った、と言って、冷凍庫から勝手にガリガリくんを取り出した。そしてそのまま背を向けてリビングへ向かおうとしていたから、私はとっさに呼び止めた。
「…いいの?」
何が、と振り向いたあっちゃんに言われる気がした。けれどあっちゃんは、
「いいもなにもないだろ、そんなの。好きなように呼べよ。ただ、三上くん、は勘弁」
渋い顔をしてそう言った。それにできるなら、あっちゃん、も嫌なんだけどな。そう付け足して、今度こそ台所を出て行った。
「あっちゃん…」
私はそっと呟いた。
あっちゃん、あっちゃん、あっちゃん、と何度も心の中でその名前を呼んでみる。あっちゃんは変わってない、あっちゃんは今も昔もあのかっこいい、優しいあっちゃんだ。壁を作っていたのは私。それを取り払ってくれたのは、あっちゃん。
大好きな、あっちゃん。
泣きそうになった、嬉しさが心の奥からどんどん溢れ出してきて。けれどその時、
「おい、ガリガリくん食うぞー。喉かわく予定だから麦茶よろしくー」
間延びしたあっちゃんの声が聞こえて、私は思わず吹き出してしまった。
「いやだよ、私も早くガリガリくん食べたいの」
冷凍庫からアイスを取り出して、あっちゃんのいるリビングに小走りで向かった。