言い出すことの難しさを、その身になって初めて知った。
12.三学期
M i s s i n g
Y o u
初恋のK君が何も言わずに突然転校してしまった時のことは、今でもよく覚えている。小学校3年生だった。
K君はもうこの町にいないのだと初めて聞かされたのは、春休みの最後の日だった。おつかいで行ったスーパーマーケットでばったり会った同級生に、そっと耳打ちされたのだ。「K君が、引っ越したらしいよ」。それは確かに衝撃的だった。だって、スーパーマーケットへ向かっていたこの軽やかな足取りも、明日の始業式が楽しみで仕方なかったことでさえ、K君への想いに因っていたのだから。けれどすぐには信じられなくって、だって、それは本当に私にとって寝耳に水の出来事だったのだから。K君の不在が心にずっしりときたのは、学校が始まってからだった。K君は、確かにいなかったのだ。K君がいつもよりかかっていたあの窓際にも、教室にも、校庭にも、下駄箱の名前にも、黒板の隅でさえ―――どこを見回しても、K君はいなかった。名前でさえも。何から何までごっそりと、存在そのものがかき消されていた。まるでK君という存在が幻の中のものだったような気さえして、私はすごく悲しかった。あの時の感情を形容するのはすごく難しい。けれど、そう、確かに悲しかったのだ。そして、微かな怒りを覚えた。どうして、どうしてK君は誰にも、何も言わずに行ってしまったのか、と。けれどその行き場のない怒りと悲しみを、私は強引の心の奥底にねじこんだ。K君との想いと共に、ずっと深く、深く、二度と登ってこないように、鍵をかけた。
そう、鍵をかけたはず、だった。
けれどそれが上手くいかなかったのだと知るのは、次の3学期がやってきた時だった。あの時と同じ風が、空気の匂いが、雰囲気が、ジワジワと心の中に染み込んできて、鍵をゆっくりとこじ開けたのだ。
だから、私は3学期が好きじゃない。3学期がくるたび、無条件にあの時の事を思い出す。
まさか、中学3年になった今でもK君のことが好きだとか、そういう話ではない(たかが知れてる恋心だった)。ただ、3学期独特の雰囲気が私を酷く萎縮させるのだ。それはもう習慣のようになっていて、だからこそ私は3学期が好きじゃない。
……だけど、今年はもっと重症だ。今になって、K君のあの時の気持ちが理解できるような気さえしてしまうのだから。
「落ちてんぞ」
不意に耳元でかけられた声にちょっとびっくりして振り向いたら、同級生の三上が私の足元にかがんで、私が落としてしまっていたらしい卒業式で歌う歌の楽譜をひょい、とつまんでいるところだった。
「あ、ごめんありがとう」
差し出された楽譜を受け取ろうとして引っ張ったら、予想に反して反対側から引力が加わる。私は眉をひそめてもう一度、今度は強くぐっと引くと、また引っ張られる。しばらくグググと綱引き状態になった後、諦めて私は顔をあげた。ざまーみろ、とでも言うようにからかうような表情で笑う三上を軽く睨んでやった。
「あのねえ、」
「もっと引っ張んないと取れねえんじゃねえの」
「そしたら手、離すでしょ」
「……離さねえよ」
「なんですか、その間」
「気のせいですよ、はいどうぞお嬢様」
どこぞの爺やよろしく恭しく楽譜が手渡されて、私は今度こそそれを、わざとぞんざいに受け取った。
「悪いわね」
「お嬢、っていうガラじゃねーわな」
「…聞き捨てならないな。私がお嬢様じゃなかったら、一体誰がお嬢様だというの」
「……」
「あ、今鼻で笑った?笑ったよね?」
「笑ってねーよ、多分」
うんざりした声音で、けれど顔では笑いながら三上が言った。そして小さく行こうぜ、と付け加える。
私ははっとして周りを見渡した。いつのまにやら卒業式の予行練習が終わった体育館は、もうすでにガランとしている。目線を戻して、三上が背中を向けて歩き出しているのに気付くと、慌てて後を追った。
瞬間、心が少しだけ痛くなる。
わかってはいるのだ、このままでいいはずなんてない。
このまま消えるなんて、それは、いけないことだと。
頭がガンガンする。
それを突然聞かされたのは、今年が始まって間もない、お正月も佳境にはいったくらいの時期だった。実家でこたつを囲みながらおせちを摘んでいた時、お父さんが言ったのだ。それまで話していたバーゲンの戦利品についての話と同じようなトーンで、言ったのだ。
「おい、今年の4月から父さんイギリスにいくんだ」
今から散歩にいこうか、みたいな調子で言うものだから、その内容とのギャップに私は面くらう。
「え、いくってなに、出張?」
「そう、とりあえず3年間の予定でな」
「…は?単身赴任ってやつ?」
そこでようやく、私は豆を摘む手を止めた。視線をあげる。お父さんが気持ち悪いくらいににこにこ笑っていた。
「いやちがう、みんな行くんだ」
「…みんな?」
嫌な予感が全身をかけめぐって、私は口に入れた黒豆をかまずにゴクリ、と飲み込んだ。
「うん、もちろんも行くんだよ」
掴んだ黒豆が、ポロリとテーブルの上に落ちて転がった。
もちろんありうる限りの反抗は、試みた。そもそもうちの学校は寮なのだから問題ないじゃないかと思うのに、一人娘をひとりっきりでおいていくわけにはいかない!とお父さんは1ミリだって譲らなかったのだ。武蔵森はいわゆる中高一貫教育で、ほとんど全員が当然のように持ち上がりで進学する。
だからこそ、そんな雰囲気の中で言い出すのは酷く勇気が必要だった。
『わたし、高等部へは進学しないんだ』
という、ただそれだけの一言を言う、本当にそれだけのことなのに。
そういう時、K君の気持ちを思うのだ。あの時のK君もきっと、言おうと思って言えずに転校してしまったのだ、と。わかってる。手前勝手な解釈だ。ただ今の自分の状況を正当化しようとしてるだけだっていうことも。
けれど、どうしたって言い出せなかった。このまるで意味がないような形式的なだけの卒業式が、私にとっては武蔵森での学生生活をしめくくる大事な儀式なんだ、なんてこと。それは、時がたてばたつほどに言い難くなる。重ねた嘘は、時間の流れに強化される。
ああ、私ってこんなにも弱い人間だったんだ。それだけの言葉を言う勇気もないなんて。
卒業を2日後に控えた今日、三上の背中をぼんやりと見つめながら私は身体全体でため息をついた。
わかってる。このままではいけない。
「」
不意に立ち止まった三上に、ぼんやりしていた私は突っ込みそうになって寸でのところで止まった。
「な、なに?」
改まった口調で自分の名を呼ぶ三上に、わけもわからずギクリとする。
振り向いた三上の黒髪が揺れて、それを見た私は突如として感傷的な想いに襲われた。
(ああ、もう三上とこうやって話をするのもあと少しなんだ)
「お前、最近変だぞ」
三上の振り向いた視線は私を通過して青く晴れわたった空を仰ぐ。
そういえば、この人は人一倍人の調子とか雰囲気の変化に気付く人だった。奇遇にも三年間、同じクラスであり続けたその人を目の前に私は戸惑いながら見返す。口を開きかけて一瞬、躊躇してから言葉を発した。
「…んなこと、ないよ」
ガコン、さび付いた音をたてて、掛け違えた歯車がゆっくりと回り始める音を聞いた。たった今、私はひとつの、そしておそらく最後の、言い出すチャンスを失った。
「…あっそ、ならいい」
三上は拍子抜けするくらいあっさりとひいて、また身体を翻すと歩き始めた。
最 後 の チ ャ ン ス を、 失 っ た。
実感した直後、頭にかけめぐったのはK君だった。何も言わずに去ってしまったK君を恨む、そして今でもまだそれを覚えてていて苦しんでいる自分、だった。
--------愕然とした。
同時に、やり場のない腹立たしさが心の底から湧きあがってくる。
最悪なのは自分自身だ。最悪だ、最悪以外の何者でもない。
何も告げられずに目の前から去られることのつらさを、私は知っているのに。
「三上」
無意識に前をゆく人間を引きとめていたことに気付いたのは、三上が立ち止まってこちらを再び振り返った時だった。
これが、本当にラストチャンスだ。私は両拳をグッと握り締めた。深呼吸。
すーーーっと空気を一杯肺に送り込んで、そして、言葉と一緒に吐き出した。
「私、高等部へは行かないの。お父さんの出張でイギリスに行くの」
一息で言い終えて、いざ言ってしまえばその呆気なさに、私は幾分拍子抜けする。肩でゆっくりと息をして、それから落としていた視線をわずかに持ち上げて、三上をそっとうかがった。
「……まじかよ」
三上の愕然とした表情が視界に飛び込んできて、途端に私は泣きそうになる。
「…ごめん、」
言い出せなくて。言おうと思った言葉はけれど喉の奥にひっかっかって、かわりに嗚咽があふれる。ぼやけた三上の輪郭から、手がのびてきて私の肩にそっと置かれた。同意を求めるような間があって、私はそっとうなずく。次の瞬間、肩をぐっとひかれた私は、三上の胸の中にいた。耳元で鼓動が聞こえる。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン………
鼓膜に響く心臓の規則正しいリズムが、高ぶった心をゆっくりと落ち着かせてくれるのが分かった。
「わりぃ」
不意に頭上で、三上がささやくような声で言った。
「えッ……?」
「俺、知ってた、……お前が転校すること」
「……」
今度は私が絶句する番、だった。
「職員室で、担任と話してるとこ聞いたんだ、それで…。でもお前、何も言わねえじゃん。もしこのまま何も言わずにいなくなったら、殺してやろうと思ったぜ」
「…こ、ころ…」
慌てて三上からわずかに離れて顔をあげると、三上が皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「良かったぜ、少年Aになんなくて。さんきゅーな」
「ごめん…」
私は思わずぷっと吹き出してから一瞬、真面目な顔に戻って、でき得る限りの誠意を込めて呟いた。
「あ、それから、皆にも言ってやれよ?」
三上の足もとの芝生が、太陽に反射してキラキラと光るのが眩しかった。
誰にも言えずに私達の目の前から消えてしまったK君はどんな思いだったろうか。多分私だったら、引きずって、引きずり続けて、ずっと後悔していただろうことを思うと―――――
三上がいてよかった、と心から思う。K君には悪いけれど、
「ありがとう」
私は多分、幸せだ。
涙でぐちゃぐちゃの顔で笑ったら、三上が複雑な顔をした。
「お前、…キモイ」
*
「3年で戻ってくんの?」
「うん、3年」
「じゃーあれだな、戻ってきたら会いに来いよ」
「…でも、三上きっと忘れてる」
「俺がんな薄情なやつに見えるかよ」
「いえ、見えないですね、むしろ執念深い」
「…お前、3年後こなかったら、殺すぞ」
「こ、ころ…」
「なんてったって執念深いからな」
この青い空と、太陽をうけて輝く芝生の色を、私は一生忘れないと思った。
青空が目に焼き付いた時、K君の思い出が心の中でゆっくりと浄化されていくのを、感じた。
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