何が好き、と問われれば、答えていわく。
甘いものが好き、青色が好き、春が好き、愛犬のポチが好き、隣の隆兄ちゃんが好き、お母さんが好き、親友のゆみちゃんが好き、クラスメイトのみんなも勿論好き、それから、
―――それから?
さて、悩んでいわく。例えば「何か」を好きなことと、「誰か」を好きなことの、その気持ちの境界線は一体どこにあるのだろうか。いやそもそも、そこに境界線は存在するのだろうか、とも。
横 散
浜 歩
18.
寒い日
〜集めた日常の断片〜
私は渦を巻いて流れていく便器の排水に目を落としながら、ゲホゲホと咳き込んだ。胃の底から湧きあがる不快感と、しめつけられるような胸の苦しさで涙が浮かんだ目尻を乱暴にぬぐった。しんどい、ダルイ、気持ちワルイ、それだけがエンドレスに回り続ける脳内で、突如湧き上がるように浮かんだその文字に、私は一瞬躊躇した。
決して嫌いなわけではなく、けれど好きなものリストに列挙することをためらうその名前の、その行方をどうしていいのかわからないまま、便器の前に私はたちすくむ。
「…みか、み、」
逡巡した挙句口の中で呟いた途端、何か救われたように体が一瞬軽くなって、脱力した体を壁に預けた。ガコン、と、平日の昼時人が行き交う横浜中華街メインストリート沿い、とあるビルのトイレで、一室の扉が大きくきしんだ。
せっかっく中華街にきたのだ、食べ放題に行こう、と先に言い出したのは友人だった。食べたのは私だった。責任の帰す所は、残念ながら一目瞭然だ。遠足というなんとも浮かれた行事で食べ過ぎて、まるで生死がかかるほどの気持ち悪さを味わうことになろうとも、ただの自業自得だ。だからってトイレに篭りっぱなしはあんまりだ、と情けなさにタイルの床を蹴った。そうしてわきあがりそうになる涙を、顔を歪めて必死でこらえた。
けれどさっきの朦朧としていた時に比べると幾分落ち着いた体を、私はよろめかせながら個室の外に出した。左手が個室のドアを閉めるその音に、なぜだか突然、先刻まるですがるように口にだした他人の名前を思い出して、うんざりとした気分になる。
のろのろと洗面台に向かうと、さらにうんざりするようなゲッソリとした顔が睨み返してきて、そこでまた大きなため息をついた。淵なしの沼に、ズルズルと引き込まれていくような、そんな気がする。陰鬱な空気を追い払うようにぶるぶると首を振ると、鏡に向かってにこり、と無理矢理口角をあげてみせた。
―――だめだ、無理がある。
作り笑いの自分の顔に辟易して、肩をおとした。むなしい。せめて空元気を、と思ってやった事が、かえって逆効果で余計暗い気分になる。とどめのように腕時計に視線を落として、形どおりにため息をついた。
こんなはずじゃなかった、と後悔するのにはもう嫌なほどに慣れてしまった。山下公園での集合時間は13時で、なのに腕時計はたった今12時59分をさしている。いくら中華街と山下公園が近いとはいえ、完璧間に合うわけがない。友人達がここに残っていなかったことが、せめてもの救いだった。遠足を楽しみにしていた友人達を自分の体調不良にまきこんで、トイレにこもりっぱなしとか、そんなのだったら多分たえられなかった。けれど自分ひとり集合に遅れるくらいなら、罪悪感もなにもない。気楽なものだ。第一、この状況で船など乗れるはずがないのだ。
気持ちをきりかえよう。よし、と小さく口の中で呟いて、私は鏡から遠ざかった。
トイレの出口の全身鏡をちらりと横目で見ながら通り過ぎて、さてこれからどうしたものかと腕を組んだその時、隣の男子トイレから出てきた人間が目にはいって、私は考える間もなく声をあげた。
「みかみ…!?」
言ってしまった後に、はっとする。
さっきトイレの中で唸るように発したその人間の名前は、発した後の口内をひどくねっとりとさせた。
「は、山田…?お前なにやってんの?」
私の大声に一瞬びくり、と肩を震わせて、おそるおそる振り返った三上が心底驚いた顔をする。
「そっちこそ、集合時間もう過ぎてるよ?」
三上のその表情に、なぜだか教室で繰り返される日常を感じて私は安堵のため息をついた。
「お互いさまだろ…、第一船なんてのれねえ…」
そううんざり呟いた三上の表情が、さっき鏡で見た私の顔同様げっそりとしていて、思わず吹き出しそうになる。
「同感」
けれど吹き出すかわりに苦笑を返す。そしてそれに応じようとした三上の脇を、私は構わずすっととおりぬけると歩き始めた。立ち止まったままの三上は何か言おうとして、しかし一瞬、諦めたような足音が後ろに続いた。その音に、私は無意識に胸を撫で下ろした。
新学期からもう2ヶ月がたったけれど、三上と面と向かって話をするそのことだけは、未だにどうも慣れない。背後から耳に届くその音の調子が、正面からのそれよりも心地良いと思う。
それは多分、教室の席の並び順の、そのせいなんじゃないかと思う。
背中越しにかかる三上の声の調子から、三上の表情を想像するその楽しみを覚えてしまったのは、一体いつからだたったろう。
| いつかのこと、その1 学期初めの席代えで、私は窓側後ろから数えて4列目の席になった。窓際の席は私が心から望んでいた場所で、というのも春のこの時期に見える校庭の景色が私はとても好きだったのだ。 遠ざかってゆく会話に、私はようやく後ろを振り返った。視界の端には、近藤くんと三上の後姿。自分のすぐ後ろの机の上に無造作におかれた鞄のその上に、三上、という印字をみつけて意味もなくどきりとした。カーテンがいっぱいに開かれた窓から、春の陽光が鞄の上にいっぱいに注がれ、その眩しさに私は目を細めた。 そうして満開の桜が風に散るその光景と、校庭の真ん中に1人たたずんでいる三上を瞼の裏に思い浮かべてひとり、こっそりと微笑んだ。 * * * |
三上は、私の知る限り、寂しがり屋だ。
今だって、別に私と一緒にいる必要などないのに、まるで当然のように後をついてくる。……まあ、大抵こういう状況になって、割と仲の良い相手だったら一緒に行動するのはあたりまえのことかもしれない。だからこれは、私の単なる願望だ。
三上は寂しがり屋でいてほしい、という願望だ。
「2時間後に山下公園に戻ってくるから、その時間には集合場所に来るように、だってさ。担任がいい加減で助かったぜ」
携帯電話から耳を離すと、三上が早口でそういった。私はその声に立ち止まる。例えばこの相手が、あまり仲のよくない男の子だったとしたら、私はすぐに『じゃあ、2時間後にね!』と有無を言わさずその場を立ち去ったことだろう。
だって、2時間も2人きりでいるなんて、そんな気まずさにどう考えたって耐えられるわけがない。
「2時間かあ〜…、どうする?」
三上は寂しがり屋でいてほしい、という願望を込めて私は振り返った。
『一緒にいてもいい?』
そんなことをわざわざ聞くのは、隣の組のぶりっ子林さんくらいのものだ。
「中華街なんて見るとこねえしなあ…、あ、よしもと水族館は」
見上げた視線のむこう、薄いブルーの看板に書かれたそれを見て、私は笑った。そして同時に、三上のその反応に満足する。
「なんで中華街に水族館なの。しかもよしもとって」
「俺にきくな…、知るか」
建物の陰になって多少ひんやりとした場所から一歩表に出ると、平日とは言えメイン通りは人でごったがえしていた。ぺちゃくちゃと喋りまくりながら歩くおばさん集団や、スーツ姿のビジネスマン、OL、地図を開きながら歩く観光客。その波の中に私と三上は体を入れて、なんの目的もなくぶらぶらと歩き始めた。自分達と同じ歳頃の、恐らく修学旅行できているのであろう制服姿のちょっとぱっとしない団体が、目の前を小走りで駆けて行って、
「修学旅行かな」
くだらない優越感に呟いた。
「じゃねえ〜?あのスカートの長さとか、靴下とかそれっぽい」
「だよね、髪型とかどうなんだろうあれ…みんなポニーテールだったよ」
「いいじゃねえか、俺は好きだぜポニーテール」
「別に三上の好みなんて聞いてませ〜ん」
「明日はきっと、原宿とか行くんだぜ。楽しみだろうな」
「もういったかもよ」
くすくすと笑いながら、けれど東京に住んでいるというそのことだけで感じれる優越感というのも、寂しいなと同時に思う。遠足も修学旅行も、大きな違いはないはずなのだ。自分の家から中華街への距離が、一体何の自慢になる?
そうでしょう。それなのに、わき上る優越感を、いつだって私はどうすればいいのかわからなくて持て余す。
そうやって多分、現実に押しつぶされそうな自分を必死で立て直そうとしているのだ。
| いつかのこと、その2 「はい、じゃあ班にわかれてー」 先生のその一言で、途端に教室は騒がしくなった。 けれど確かに、そうなのだ。三上は何故だか女の子にひどく人気がある。人を小馬鹿にしたようなあのにやにや笑いと、タレ目のコラボレーションがよろしいのだそうだ。近頃の女の子の趣味はすこぶるわからない。 「山田!」 次の瞬間、三上が他の女の子とじゃれ合う姿を視界に捉えて、そして、 ―――冷める。 そうして三上を残して、私は教室を後にした。 * * * |
「あ、ゴマだんごたべた〜い」
「…」
「何その目。まだ食うのかとか思ってんでしょ」
「いやいや、学習しないお猿さんだなと思いまして。また気持ち悪くなっても、その場においていきますからね〜ご自由にどうぞ!」
「うっわ、かんじわるっ」
軽口を叩きあいながら気付けば、いつのまにか二人の足は中華街を抜けて山下公園の手前に差し掛かっていた。三上との間にあいた微妙な間隔を侵さないようにと、細心の注意を払いながら歩いていた私の手前で、前触れもなく三上が立ち止まった。思わずどきりとして視線をあげると、目の前の信号が赤くそまっていた。…なんだ、と所在のないがっかり感を持て余しながら、同時に自分がさっきから下ばかり向いていた事に気付いてふっと笑った。
なんだかなあ、もう。いつもは周りに誰かがいて、私達の会話に耳を澄ましているような誰かが居て、というそういう状況を前提にしているから、今日はなんだか居心地が悪い。不思議なことに、ここには誰もいない。いや人はたくさんいるのに、ここにいる誰も、私と三上の関係を知らないのだ。
けれど、羨望の眼差しだとか優越感だとか、そういうものを全てぬきにして、それでも三上と一緒にいることが心地いいと感じてしまうのは、それは、どういうことなんだろう、とか。考え始めるときりがないように思えた。
「お前、寒そう」
振り返った三上が、唐突にそう言葉を発して目をほそめた。そういっている三上は、両手を制服のズボンのポケットにつっこんで背中を丸めている。そういえば、午後になって日が傾いたせいでぐっと気温がさがった。はおりものがブレザー1枚の身に、言われてみればたしかに海の風は厳しかった。
「うん、寒い」
素直にそううなずくと、三上が目を丸くした。
「なに?」
「…いや、が素直に肯定すると拍子抜けする」
「…失礼な」
手なんか寒くてコチコチだよ、と私は何気なく手のひらを差し出した。三上はそれにチラリと視線を送ると、面倒くさそうにポケットからだした手で私の差し出した手を握った。
「げっ」
遠慮のない三上の声に、私はむっとして顔をあげた。「その反応はないんじゃない?」そう言い返そうと口を開きかけて、けれど、その時触れ合った三上の手のひらの体温に、一瞬言葉を忘れてしまう。乱暴につかまれた手のひらは、三上の手の中で小さく縮こまった。そして、予想だにしていなかった三上の体温の高さは、私の胸を思いのほかゆさぶった。
どうしよう、反則だ。こんなに温かいなんて、反則だ。
| いつかのこと、その3 まるで人をさけるように、昼休みにひとりぼんやりとアスファルトの階段に座っていた三上を見つけたのは、鈴木さんが三上に振られたという噂を聞いたばかりの頃だった。その噂は瞬く間に、学年で一番の美人と名高いあの鈴木さんが、とショッキングな大ニュースとして学校をかけめぐった。 「人気者は大変ですね」 鈴木さんさえ手の届かない理想の高さとは、一体どれだけ高いのかと、私は内心恐れおののいた。そして同時に、きっとそんなことはないだろうけれど、という前提つきで、この人を好きになることはいけないと、そう胸に刻み込んだのだ。 幸せになれない恋なんて、私はしたくなかったのだ。 * * * |
そんな強固だったはずの決心が、体温ひとつのことで瓦解の危機に陥るとは、到底予想していなかった。いや、でも、と私は動揺する心にたたみかけた。いや、でも、私はまだ三上に完全におちてはいない、だってまだ肯定するには躊躇が残る。
それに、ほら、繋がった手のひらを、私はまだ簡単に振りほどくことだってできる。
「痛いってば」
「ばーか、痛くしてんだから当たり前だろ」
離れた体温の名残おしさをぐっと押し込めて、私は前に立って歩きだした。
その私の背中を追うように、三上が何かボソリと呟くのを確かに聞いた。
「俺、 」
呟いた言葉は、けれど、その時タイミング悪く港に響いた警笛の音できれいに掻き消されてしまう。
「え、なに?」
間髪おかず振り返った私に、三上は明らかに一瞬戸惑って、そして、
「ばーか」
とごまかすようにわざとらしい大声を返した。
私は思わずそのまったく予想通りの反応に吹き出してしまって、堪らず三上の背中をバシバシと叩いた。うざったそうにその手を振り解こうとする三上に抵抗しながら、私は遠慮もなく笑い続けた。
例えば世間のしがらみのようなものを取り払って、優越感とか、意地とか、世間体とか、そういうものを取り払って、それでも貴方のことが気になるとしたら、それは恋というのでしょうか。例えば、くるしくなって一番に頭にうかぶのが貴方の名前だとしたら、それは恋というのでしょうか。
わからないけれど、私はただ、遠く夕暮れに沈むベイブリッジと水面に乱反射する夕日の光線を視界に納めながら、もっと三上に触れたいという衝動を懸命に押さえていた。
手のひらが、じんじんする。
たまらず、再び響いた船の警笛に、私は目をつぶった。
耳に残るその響きを、そうしてゆっくりと反芻する。
『俺、ラッキーかも』
ねえ、私は何かを期待をしてもいいんですか。そこに境界線をひいてしまっても、いいんですか。
答えの出ない問いに、潮風は、赤く染まった頬を静かに撫でては去って行った。
■横 □ 浜 □ 散 □ 歩■
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