「お、三上選手活躍してんじゃん。載ってるよ」
さっきから無言で新聞を覗き込んでいた友人が不意に言葉を発して、ひょいと顔をあげた。ちょうど大きな口を開けてサンドイッチに食いつきかけていた私は、それに答えるべきか食べるべきか、と一瞬迷ってからパンとレタスを噛み砕いた。隣に座っていたさっちゃんがそれに、
「三上ってサッカー選手の?なになに、好きなの?」
と身を乗り出す。
「うん、
がね。ファンなの」
ね?とふられて、私は口の中のものをゴクリと飲み込んでから、曖昧に頷いた。

「…うん」

(…ファン、ではないんだけどなあ)
複雑な気持ちで思いながら、けれど曖昧な感情は、結局言葉にはできなくて。わたしはいつものようにまた、ただ何も言わず、曖昧にうなずくのだ。

 

 

やまない雨
        
 苦しい、何かを求めてるわけじゃないのに

 

 

(…ファン、ではないんだけどなあ)

例えば私と三上に接点がなかったのなら、多分わたしは今こうして毎日三上の動向を気にしているような、そんな行動は取らないとおもうのだ。もちろん何かの拍子で好きになって、ちょっと追いかけるということはあるかもしれない。けれど、こうやってサッカー雑誌やスポーツ新聞を買いあさったり、インターネットで「三上 サッカー」と検索するような自分でもうんざりするようなしつこさは、多分なかったのだ。

けれど、情報を集めれば集めるほどにやるせなさは加速する。

「三上」と誰かが親しげにそう呼ぶたびに、私は嫉妬心にあえぐのだ。最初から私のものでもなんでもないのに、手元からすっと抜け落ちてしまったそんな感覚に。どうしようもなくやるせなくなる。

だからといって、何かをしたいわけではないのだ。

今の三上に会いたいとはあまり考えたことはない。「三上」と誰かが呼んだだけでムッとするのに、会いたくはないとはおかしな感情だ、と思わず自分でも笑ってしまうのだけれど。

でも、ひとつだけ確かに言えることがある。

今も、私は三上に恋をしている。

?」
「え?あ、ごめん…、なに?」
目の前でパタパタと手を振られて、私はようやく我に帰った。いつのまにか広げられていた新聞が、キレイに折りたたまれてテーブルの上にのっている。
「おいおい、ほんとにボーッとしてたよこの子」
やれやれ、とさっちゃんが肩をすくめてみせる。
「なんで三上が好きなの?って聞いたんだよ。顔?」
私は苦笑した。いつものならいでうん、と頷きかけて、一瞬思いとどまる。これは、いい機会かもしれない。そっとテーブルの上の携帯に手を伸ばして時計を表示させた。午後の講義まで十分時間があるなと確認して、心の中で小さな決心をする。

最近思っていたことがある。例えばもし、この心の葛藤を誰かに話したなら、少しは諦めがつくのかもしれないと。悪く言えば、この報われない恋に、終止符を打てるのではないだろうかと。

「ちょっと話は長くなるんですが…、」
まってました、とばかりに聞く体勢を整える2人に微笑して、さてどこから話そうかなと思考をめぐらせる。

ふと2人がよりかかっているソファの後の窓の向こう、6月のはっきりしないくすんだ空が見えて、わずかにあげた目を細めた。

 

 

あれも確か、6月だった。

降り続く雨に、みんなそろって太陽を焦がれていた中学3年の1学期。空気までが湿っていて、深呼吸してどれだけ水分が摂取できるだろうかと、私は仲の良い3,4人の友達と教室のすみっこに固まって真剣に話していた。教室の、たてつけの悪い窓ガラスが風に煽られてガタガタと揺れる。教室には思い思いに時を過ごすクラスメイト。私は悩みのタネのクセ毛を指でいじりながら、目下の感心ごとを、傍らの友人に呟いた。
「体育祭、ほんとに大丈夫かなあ」
「微妙なところだよね…」
「だよね…」
ため息を吐き出しながら私は肩を落とした。
今年の梅雨は、雨が降りすぎる。4日後に迫った体育祭も、無事に日程通り開催されるか怪しい上に練習さえまともにできていないのだ。わりと学校で力を入れているこの行事も、私達3年生にとっては今回が最後だったから、みんなの気の入りようも半端じゃなくて、その分焦燥感がつのる。私はなんの間違いだか体育祭実行委員になってしまったこともあり、それ以上に気負う所もあって。心底、太陽を焦がれていたのだ。
「あ、そろそろ私委員会いくね」
はっと思い出して時計を見上げたら、あと1分で集合時間。私は慌てて席を立った。

 

、ちっこく〜!」
ガラリと教室の扉を開けたら、真向かいから声が落ちてきて思わず後ずさりする。
「な、なに?」
「あ、ごめん。驚かせちった」
お調子者で知られる隣のクラスの山田くんが、私を見下ろして梅雨も吹き飛ばすような陽気な声で笑った。
「なんかさ〜、ちょっと色々足りないもんがあって…、頼まれてくれない?」
「え、あ、うん」
「山田がいけばいいでしょ!
さん、こいつの言うことなんて聞かなくていいから!」
山田くんと仲の良い鈴木さんが割り込むようにして間に入ってきて、山田くんを小突いた。
私はこのふたりのやり取りが(漫才を見ているみたいで)すごい微笑ましくて大好きだったので、思わず頬がゆるむ。
「いいのいいの、鈴木さん。私いまやることないから。買ってくるくらい全然」
「でも、雨降ってる…」
「雨やんだ!」
と、突然山田くんが鈴木さんの言葉を遮る大声を出して、私と鈴木さんは思わず同時に窓の方に顔を向けた。
「…あ、ほんとだ…」

さっきまで重い雲の垂れ込めていた空が、いつのまにか所々青空さえ見せていて、私は喜ぶよりもびっくりしてしばらくポカンとしていた。それは鈴木さんも同じで、私が我に帰って視線を戻した時もまだ鈴木さんは窓の向こうをみたままポカンとしていた。

「私、いってくる。買って来てほしいもの書き出してくれる?」

私の言葉に観念したような顔で、鈴木さんはやれやれと肩をすくめた。それから数分後、私は手渡された買い物メモを手に校舎裏の自転車置き場で自転車の水しぶきをはらっていた。払い終えて、制服のポケットから鍵をとり出す。少し前かがみになって鍵を差し込もうとしたその時、背後から声がかかって私は慌てて上体を起こした。

「…はい?」
パシャパシャと水蹴る音をたてつつ近づいてくる男の子は、見覚えがある……、けれど名前が想い出せなくて、わたしはちょっと困って首をかしげた。
「買出しいくんだろ?俺もいく」
「え、いいよ、そんな、わる…」
「悪くねえよ、俺がただ単にサボりたいっつ〜だけなんだから」
悪くねえだろ?と拗ねたような顔で付け加えたそのこの表情がなんだかおかしくて、私はたまらず吹き出した。そのお陰で少しだけ警戒心がとれて、私は馬鹿みたいな意地を張らずに「じゃあ…、」とお願いすることにした。
「…ありがとう。えっと、」
「…、ああ、三上」
なんだよ、名前くらい覚えろよ、と彼は口をとがらせ不機嫌そうに自転車の荷台に手をかけた。私はまだ鍵をさしていなかった事を思い出して、あわてて鍵穴に鍵を差し込む。それから自転車のストッパーをはずそうとして、はて、と思い返して三上を振り返った。
「あれ、自転車は?」
「ない」
「…ない、」
あまりにきっぱりした返答に、馬鹿みたいに鸚鵡返しに呟き返す。
「…え〜っと、」
「二人乗りすればいいだろ」
「…二人のり」
「お前漕げ、俺うしろ乗るから」
「…私こぐ、…、て、…は?!むりむりむりむり!」
「ムリじゃねえよ、人間努力すればなんとか、っていうだろ。俺も応援してるから」
他 人 事 で す か!
ていうかそれじゃあただのお荷物じゃないです、か!ついてこないほうがいいんではないんです、か!
と憤って鼻息が荒くなったけれど、まさか「お前なんてついてこなくてもいいよ〜!」と初対面に等しい人に言えるはずもないわけで。そして非常に残念なことに私の神経はそんなに図太くもできてはいないわけ、でもある。
(…ていうか、この人本当に親切心から、とかじゃなくて作業サボりたいためについてくる、とか言ったのかな…?)
と、せめてもの抵抗とばかりに思いっきり訝しげな目で見てやったのに、
「早くしてくださ〜い」
当の本人からはまったく気にするようでもなく、せかすような声が帰ってきて。
(…にゃろう)
私は自転車を投げつけて駆け出したい衝動をなんとかこらえ、おとなしく自転車にまたがった。

自転車は、雨上がりの湿った空気をかきわけて進む。最初のうちはあっちへいったりこっちへいったり不安定な走行に、後にのる何様なんだお前!な三上がブツブツと文句を言っていたけれど、漕ぐうちに序序にコツを掴んだ私は学校を出て2回目の角をまがるころには、人並みにこげるようにはなっていた。
「お、も、い!」
「お前は、ちょっとお人よしすぎねえか」
とは、後で涼しい顔して風にふかれている三上くんのセリフ。
「ご心配ありがとうございます」
私はそれに、触らぬ体で返答する。風にはためくスカートに細心の注意を向けることのほうが、どちらかというと目下の感心ごとだった。だから言下に「はいはい、黙っててくださいね」という意を込めて発したはずだったのに、この後のお荷物にはそんな日本風の遠まわしな言い回しなど通じないが如く、
「だいたいさっきも…、」
と、教室での出来事をいちいち事例を挙げ連ねて諭されて、私は顔が見えないのをいいことに思いっきり顔をゆがめて嫌な顔をする。そのとき、小さい虫が鼻の穴に飛び込んできて私は同時にむせ返った。
「…だいじょうぶか?」
少しだけ心配そうな声。さっきまでとは対照的に囁くように呟かれたその一言に、耳のうちがわが一瞬ぞわぞわとする。それが契機となったように、さっきまでなんとも思っていなかった、何でもないはずの些細な接点に意識が過剰反応する。サドルにつかまる三上の手が、歩道の段差を上り下りするたびにそれに合わせて上下にふれる。かすかに触れる肌の体温は、触れたその場所を起点に、足のつまさきから頭のてっぺんまでじわりと伝播していく。火照る頬に、一生懸命こぎすぎたから…、と言い訳めいたことを呟いて自分に言い聞かせた。
「体育祭、晴れるかなあ」
「…さあな」
つれない返事に、私は肩透かしを食らった気分になって、文句の意を込めて後を振り返った。
流れ行く景色の向こうで目の端にちらりと見える、三上の顔。私が振り返るなど予想だにしていなかったであろうその表情は、驚く事に、予想に反して―――――、微笑んで、いた。意図せず釘付けになる視線。三上のはっとした表情、それから―――
「…おいっ、お前、前!」
「わーーーーッ!」
三上の叫び声に慌てて前をむいたら目前に電柱が迫っていて、私は無我夢中でハンドルを右に切った。危機一髪のところで、自転車は右にそれて電柱に正面衝突の難をのがれた。けれどすれ違いざまにかすった左手の肘に、焼けるような痛さが残る。
「…、っぶねえ…」
三上の非難めいた一言に、私はそれどころじゃなくてペダルを漕ぐ足に力を込めた。

肘がいたい。頬が火照る。身体が火照る。頭がまるで麻痺したようにジンジンする。

(―――頭、打ったかな)

どうかしてる、と思った。さっきの目の端に一瞬うつった三上の表情が、瞼の裏に鮮明に焼きついて消えないなんて。

「坂、のぼれんの?」
前方50メートルほど先に横たわる、傾斜30度ほどの坂道が視界にはいった。
「…多分」
私は自信半分に情けない声で請合った。いつも登れている。ただし、………1人乗りで、という条件付きではあるけれども。とりあえず30メートル手前、赤いポストの前を通り過ぎたとき、私はサドルから腰を浮かせて思いっきりペダルを踏んだ。

上がるスピード。

立ちはだかる、大きな壁。

加速度良好。私と三上を乗せる自転車は、坂道を一気に駆け上がる。ハンドルを握りしめる両手は、いつのまにか汗で滲んだ。

 

(――――っ、あ!)

その瞬間、なぜだかひどく、唐突に。
胸がきゅうっと収縮するような感覚と、体の内側にたまっていたドロドロとした悪質なカタマリが体の外に一気に飛び出したような開放感が、いっしょくたになって襲ってきたような錯覚を覚えた。
そして同時に、何か希望にも似たとてもキラキラしたものがすっと心の奥に入り込んでくる。そして次の瞬間、唐突に、まるで降ってきたように、私の中にある確信がうまれた。
(この坂道を一回も足をつかずに漕ぎきったならば、何かが変わる)
笑えるはなしだ。いいや、皮肉というのかもしれない。別に私は何かに悩んでいたわけでも、何かを気に病んでいたわけでも決してなかった。けれども、この坂道を一回も足をつかずに漕ぎきったならば、何かが変わる気がして。何かが、新しい何かが見えるような、そんな気さえして。いいや、絶対に何かがかわると、そう確信したのだ。

それは、使命感に似ていた。
愛する人を、その人を襲うすべてのものから守らなければいけないというような、ひどく自分勝手で自己満足な使命感に。

漕げば漕ぐほど、私は今このとき人生の最大の岐路にいて、これを達成できなければ全てが陥落してしまうような、そういう焦燥感と緊張感が私を襲って――――緊張感が、押しつぶされそうな緊張感が、ペダルを漕ぐ足に重圧をかける。

最大点を過ぎたスピードは、山なりのカーブを描いて徐々に落ちてくる。重力が、身体をひっぱる。二人分の重みが、坂を引き摺り下ろそうとする。
(負けるか!)
これを登りきらなければ、なにかが崩れてしまう。その何かは、何なのかはわからないけれど。
「…降りるぜ?」
遠慮がちに背後から声がかかって、私は間髪いれずにそれを却下する。
「いいから、のってて!」

あと少し、あと少し、あと少し……!

残り3メートル、2メートル50、2メートル20、2メートル10、にめーと…、る…………

車体は音もなく、左右にぶれた。

確信が潰える瞬間は、ひどく安易だった。
そう、確信など、まるで最初からそこにはなかったように。

「あ〜あ…」
あと少しだったのに、という少しだけ悔しそうな三上の呟きがやけに耳に響いて聞こえた。その響きに共鳴するように、緊張に強張っていた私の身体から不思議なほどにすっと力がぬけた。けれど同時に、変わりに妙なやるせなさと、空っぽな気持ちが感情を取って代わる。

(できなかった。――――やれると思ったのに)

「くやしい!」
「まあまあ、帰りもあるじゃねえか」
「…はい?帰りもうしろ乗る気?」
「もちろんだとも」
「えええええ!!もちろんなの!」
「いいから早くいこうぜ、はい、漕いで」
「…ちょ、無理」
「…は?」
「疲れた…、なんか今ので気力ぬけちゃった…はは」
坂の途中で費えてしまった夢のようなものだよ、とわざとおちゃらけた調子で私は笑った。その笑いが我ながら情けなくて、余計泣きそうになった。まっすぐに見据えた坂の向こうに見える青空が、酷く眩しくて私は目を細める。

と、突然。さび付いた自転車の荷台がギシリと鳴って、浮き上がった。思わずうしろを振り向くと、立ち上がった三上。視線をゆっくりと上げると、表情のつかめない三上の目と視線があって、
「代われ」
と一言、目を反らしながら彼が言った。
「…は?」
きょとんとする私の握っていたハンドルを強引に奪ったかと思うと、気がついたらあっという間に私は自転車から押しのけられて坂道に立っていた。
「早く」
「早く?」
この人はさっきから私の予想の範疇をこえた行動をとる。だから、私は心底戸惑って聞き返したら
「乗れ、っつの」
と、すかさず急かす様な返事が返ってきて、私は何も考えず慌てて荷台にまたがった。
「捕まっとけよ」
無言でうなずきかけて、けれど、ああ、見えないんだった、という事を思い出して「うん」と慌てて付け加える。それが合図だったかのように、三上は自転車をグルリと180度Uターンさせると、今登ってきた坂道を…、勢いよく下り始めた。
「え、なに、ちょ、どこいくの?」
「……」
「ねーえ、」
帰ってこない返答に、私は仕方なく三上の背中を睨みつけた。白いシャツがバタバタと風に煽られて、時折かたどられる三上の身体の直線に眩暈を覚えて俯いた。タイヤが、地面を滑らかに滑って行く。

「っし、行くぞ」
坂を降りて、赤ポストの前辺りまで来た時、三上はブレーキを握って自転車を乱暴に停止させた。
「…え、どこに?」
まだ自体を把握しきれていない私は、混乱しながら三上を見上げる。うなじが目に入って、例えば男の子のうなじをこうやってじっくり見る機会なんてそうそうあるもんじゃない、とどうでもいいことを思った。
「お前、アホか?登るんだよ」
あまりに当然のように言い返されて、わたしは一瞬「ああそうか…」と納得しかけてしまってからはっとする。それから慌てて、
「あの、でも、三上が登れても私が登れなきゃ意味な…」
と付け加えたら、三上は呆れたようにそれを遮った。

「はあ?何いってんの?お前も同じ自転車のってんだから同罪だろ?」

(……同罪、って)

その言葉のあまりの艶かしさに。私は突如高まった胸の鼓動を、うずくまるようにしてやり過ごした。

「……うん」
――――どうしよう、と思った。正直、どうしよう、と。私のくだらないこだわりを見抜いて、それに付き合ってくれようとしている三上と、それに手を貸してくれようとするそんな三上に。

ただ、どうしよう、と思った。

三上がゆっくりと、力強くペダルを漕ぎ始める。はためく白いシャツと、三上の身体の両側を駆け抜けていく草の匂いのする風。私はたまらなくなって、思いっきり仰け反って空を見上げた。

 


:。・゜.*:。・゜.☆*:。・゜.:。・゜.☆*:。・゜.:。・゜.☆


 

坂のてっぺんまでくると、三上は驚く程優しく自転車を止めた。

少しだけ息を弾ませて、自転車を降りるその肩を私は自然に見上げる。そして振り向いたその顔が、気まずそうに頭を掻くのをみて、私はふっと笑った。
「たまには誰かの力を借りてもいいんじゃねえの、お前はさ……お人よしすぎるんだよ」
さっきの説教が始まるのかと思って身構えたその時、三上の頭越しに…、
「みて!虹!」
私は思わずあっと声を上げた。
それが結果的に三上の言葉を遮ったことになって、それに何か文句を言いかけた三上の口が、パクパクと金魚のように開いたり閉じたりした。けれど、すぐにウンザリしたように肩をおとすと何故だかひどくおそるおそる、といった調子でうしろを振り返る。視線の向こうには、虹が、大きな虹が、青空に大きくかかっていた。眼下には、雨上がりの街並み。水滴を反射してキラキラと光るその光景が眩しくて、私は反射的に目を瞬かせた。
「…虹だな」
三上がぽつりとつぶやく。
「うん」
わたしは大きくうなずいて同意をしめす。

さっきからずっと、心臓の音が耳の近くで響いている。それと一緒に、眩暈のするようなこの感覚。

「ねえ…、何かあったら三上を呼んでもいいかなあ、助けてって」
酔いがまわったような感覚に、私は自分が何を言ってるのかも自覚しないままにぼんやりと呟いた。
傍らで空を見上げていた三上が、私を見下ろして、そして静かに―――――

「ああ」

と頷いた。

 

 

 

 

「…それで?」
さっちゃんが待ちきれない、とでもいうように先をうながす。
窓の外は、さっきと変わらずどんよりしている。私は氷が溶けてうすまってしまったジンジャエールを飲み込むと、満面の笑みで答えた。
「それで、終り」
「…は?」
2人がきょとんとした表情になるのを私はおかしそうに笑って、時計に手を伸ばした。…いい時間だ。あと7分で、午後の講義が始まる。
「なにもなし、だよ。もともとクラスも違ったし、体育祭終わってしまえば会う事もなかったし。あれっきり」
私は喋りながら、テーブルの上に無造作に散らばっていた私物をバッグの中にさっさと戻す作業を始める。
「えええええええええ!!??なにそれ!」
さっちゃんが信じられない!と真っ向から否定するような声をあげて、
「だから、私は今でもこんななわけ」
私はそれをさらりと受け流して「こんな」と、バックにつまったサッカー雑誌と新聞をさっちゃんに見せる。
「…、ああ」
妙に納得した表情でさっちゃんが頷くのを私は横目で見ながら、バックの留め金をパチリと止めた。
「さあ、行こう」
まだ納得いかない顔で座っている二人を促して、私は立ち上がる。

「ねえ、会いたいと思わないの?」

不意に投げかけられたその問いに、私は不覚にも足を止めてしまう。けれどゆっくり深呼吸して、それから

「ううん」
振り向かないまま首をふった。

 

 

決して、会いたくないわけではないのだ。だって確かに、

今も、私は三上に恋をしている。

ただ、私の彼への幻想はあの6月を境に止まっているのだ。まるでキラキラ光る思い出の小箱に入っているかのように、輝きながら停止している。だから、思い出と呼べるあの出来事がもしも今の三上に会って崩れてしまったら、と思うと怖くて。ただ、怖くて。

けれど断ち切れない思いは、多分、彼にもう一度会わない限りは無理なのだろうという事もなんとなくわかってしまった。暖めすぎた、あまりにも当然なこの感情に終止符を打つその為には。

だから―――――、もしも、本当にもしもの話、もう一度会う機会があったならば。聞きたいことがある。
あの6月の日のことを覚えていますか、と。
そして、正直に答えてほしい。少し困った顔で、けれどきっぱりと。

覚えてなんかいない、と。
確かなものなどこの世には1つもないのだと、否定してくれるだけでいい。

そうすれば私はまた、あの人に憧れる。否、憧れられる。

 

そうやって今日も、梅雨の一時の晴れ間は私の心を優しく、けれどひどく残酷に侵食していくのだ。

 

 

ああ、私はなす術を知らない