一筆啓上いたします
love letter

 

 

 

三上は、ゴールの枠に寄りかかりながら、渋沢が靴の紐を結びなおすのをぼんやりと見下ろしていた。
シャツ越しにゆるりと伝わる金属のひんやり感が、練習を終えてほてった体には魅力的な温度だった。腰にあてていた手を、三上はそろそろと背中に回す。手の平が冷たい温度をとらえて、それを逃がさないようにぐっとつかんだ。剥がれかけたメッキが、手の平の皮膚をちくりと刺す。
「すまん」
不意に渋沢が丸めていた体を上げて、立ち上がった。見下ろしていた視線が、今度は自然と上を向く。なんだかそれに少し不快感を覚えて、三上はチッと小さく舌打ちした。
「…いくぞ」
勢いをつけて背中をよりかかっていた場所から持ち上げて、背後を振り返った。ついさっきまで、部員が所狭しと駆け回っていたグラウンドには、今はもう人っ子一人残っておらず、ただ傾いた太陽が緑色の芝生の上に橙色の陰をつくっているだけだった。三上は一瞬目を細めて、遠く西に傾きかけた夕日を仰ぐと、促すように渋沢をもう一度振り返った。
「日が長くなったな」
歩き始めた三上の少し後方を、渋沢が草を踏みしめるようにして追ってくる。
「…あ〜、な」
自分が言いたかった言葉を先に言われ、三上はタイミングを失って曖昧にあいづちを返した。
そのままなんとなく言葉を交わすのも億劫で、無言のままグラウンドを横断して、部室に向かう。
「う〜、早くシャワー浴びてえ」
部室のドアをがちゃりと開けると、中から湿気と汗と足の匂いがブレンドされた、モワッとした空気が出口を探すように流れ出てきて、三上は顔を歪めた。
「くっせえ!!!」
「…ヒドイな、これは」
「換気扇なおした方がいいってぜってー!!…変な虫とかわくぜ。ヤモリとか」
「三上、ヤモリは虫じゃない。爬虫類だ」
「しってますよ、んな真面目に訂正すんなって……、あ〜、これだから夏は嫌だっつーの」
「そうか?これを抜かしたら俺は好きだけどな」
「ハイハイ、黙っててください夏男」
「…感じ悪いぞ、冬男」
「ヤメテ、冬男ってなんか軟弱…ほれ、早くでんぞ。こんなとここれ以上いたら自殺行為だ」
放り投げてあった着替えとカバンを無造作にひっつかむと、三上は逃げるように部室のドアをくぐった。このまま寮に帰って、すぐにシャワーを浴びよう。心の中でこれからの予定をざっと計算する。背後で部室の鍵を締める、カチャリという小さな音がして、三上はそれを目で確認することなしに歩き出した。
「今何時?」
振り返りもせずに背後に尋ねる。
「6時55分」
「ギリギリだな」
本来ならば部室から寮に向かうには校舎の周りを大回りしていかなければならないが、校舎の中を横断すればショートカットになるのだ。校舎が閉まるのは一応7時になっているので、今ならまだ通ることができる。
まだちらほらと人が残っているのだろう、夕暮れの中でうっすらと蛍光灯の光が所々洩れている。渡り廊下を渡って、踏み入れた校舎はしかししんとして、どこか寂しかった。なんとなく渋沢を振り返ると、ん?という表情で、渋沢が横に並ぶ。「別に」と呟いて、閑散とした廊下をそのまま直進した。

「……」
「……」
足が止まったのは、どこからか声が聞こえてきたからというそれだけの理由ではない。その声が、聞き覚えのある音を含んでいたからだった。三上は声がどこから洩れてくるのか探そうと首を回しかけて、すぐそこの教室の扉が半開きになっているのを認めた。教室から洩れた光が、薄暗い廊下に一筋の線を描いている。
傍らの渋沢が小さく息を呑む気配を感じて、三上はドキリとする。顔は正面に向けたまま恐る恐る左隣を盗み見れば、色素の薄い前髪の下の目線はまっすぐ半開きの扉に向かっていて。
三上はそれに、軽い絶望感を覚えた。

『……しょ?』
『ちょ、ちょ、違うって!』
『いいって、恥ずかしがらなくってもさ〜』
『恥ずかしがってるとかじゃんくて、ほんと!」
『ハイハイ、ていうかずるいよ、人に言わせといて自分はなしなわけ?』
『だ、だってホントにいないんだもん、しょうがないじゃん…』
『気になる人、とか』
『気になる人?それはいっぱいいすぎでわかんないよ…』
『えっ、なにそれ問題発言!ダレダレ?』
『ひみつ〜』
『あ、ヒドッ!…じゃあさ、どんなことされたらクラっとくる?ちょっと好きになる?』
『ええッ?そんなん聞くの…?う〜ん…、』
『じゃあさ、気になる人から告られたらどうする?』
『えっ、こくっ…、そんなことないから、絶対ないから』
『だーかーらー、もしも、の話だってバ!』
『んなこと言われても…、あ、でも、ラブレターとかもらったらちょっとクラっとくるかも』
『ラブレター!?メールじゃだめなの?』
『うん、直筆のほうが気持ちがあるでしょう。そして残しておけるでしょう。え、ちょっと、なんで引いてるの?いいでしょ?』
『……』
『……』

「「ラブレター…」」
ぼそりと、口をついて出た言葉が妙に響いて、傍らで立ちすくむ人間が同時に同じ言葉を発したことを知る。思わず無遠慮に振り返って、気まずそうに頭を掻くその表情を睨みつけた。
「おまえ…、」
眉をゆがめたまま問いただせば、ん?と、惚けるのを決め込んだように、努めて無表情な顔が首をかしげた。
半開きの扉からは、甲高い笑い声が途切れ途切れに洩れ聞こえる。
しばらくの間。とがめるような視線に、三上は屈して目をそらした。
「…っ、なんでもねえ。いくぞっ!」
喉元まででかかった問いを、三上は舌打ちに変えて吐き出すと床を蹴った。

開いたドアの前を横切る時、一瞬だけ声の主の姿が視界に入るのをわざと見ないようにして通り過ぎた。

 

(……ラブレター、か)

 

*  *  *

 

「なあ、お前ラブレターとか書いたことある?」
三上の何気なさを装った問いかけに、ブッ!と盛大に中西がコーラを吹き出したのは、就寝時間にはまだ1時間ほどある、談話室での出来事だった。それぞれの好きな場所に陣取って思い思いに時を過ごしていたサッカー部の面々が、一斉にこちらに視線を向けたけれどそれも一瞬のことだった。
「……お前頭だいじょうぶか?」
少しの間を置いて、読んでいた雑誌を開いたそのまま、中西は眉間に皺をよせるとひそひそ声で言った。
眉を寄せたいのはこっちのほうだ、と三上は飛び散ったコーラが染みを作るカーペットを見下ろす。
「噴くか、普通」
「だってお前が、面白いこというから」
「はあ?ただ書いたことあるかないかだけ聞いてるだけじゃねえか」
正直、言ってしまったことに今更後悔しながらも、取り消せない前言に苦い表情で三上は呟いた。

「渋沢も言ってたぜ、ラブレターがどうとか」
中西の隣で床に寝転がって本を読んでいた根岸が、視線は本に落としたまま、不意に会話に割って入ってきた。
渋沢、というその単語に、三上は顔が強張るのを自覚する。
「え?まじかよ?……お前らどうしちゃったの?」
「…しんね」
「俺も是非知りたいなあ」
根岸が意味深に呟くと、わざと本をゆっくりと閉じてから上半身を起こしてあぐらをかいた。
「だーかーらー、しんねえっていってんだろ。渋沢に聞けばいいだろ」
根岸の視線に、三上は不機嫌に目をそらした。
「聞けるわけねえじゃん」
なあ、と根岸が中西に同意を求めて、中西がそれに勢い良く首を縦に振った。
「だいたいラブレターなんて今更書くやついんの?メールでいいじゃん。そんなん渡したら絶対ヒかれるって」
「俺ならぜってーヒく」
「…べっつに誰もテメェにラブレターやるって言ってねえ、よっ!」
このままここにいたら、気付いたら根掘り葉掘り探り出されてしまう。
三上は危険感をかんじて、なるたけすみやかにこの場所から逃げ出そうと、あぐらをかいていた足を崩して体を持ち上げた。
「それに、ラブレターもらったら嬉しい、つってたんだよ。だからヒかれません。ザンネンでした」
捨て台詞のようにそう言い捨てて背中をむけた。
中西が、キョトンとした顔で「へえ…」という唸り声に似た音を発するのが横目にみえた。

「え、が?」

「!!!!」

中西の反応に幾分満足して、いざ立ち去ろうと足を踏み出しかけたところで、けれど根岸の一言に転がっていた缶に危うくつまずいて転びそうになる。
「な、な、な…!」
「なんで知ってるかって?」
根岸が動揺する三上を見上げて、苦笑した。
「お前見てりゃあわかるよ。…あと渋沢も」
それに、別にそんな素直な反応よこさなくてもいいんだけどな、と冷静に付け足した。

 

*  *  *

 

鈍く発光するデスクライトの光が、さっきから凍った様に停止している手と、そこにおさまるボールペンの黒い陰を白い便箋の上に写し出す。今日買ってきたばかりの100枚つづりの便箋は、もう半分以上が消費されていた。その代わりに足下におかれたゴミ箱はぐちゃぐちゃに丸められた紙屑で溢れかえり、許容範囲を超えた紙屑は床の上にだらしなく散らばっていた。

進まない手。進まない思考。ペンを中指の上で何度となく回転させて、三上は苛立たしげに息を吐いた。

「…まるで小説家だな」

不意に、揶揄するような声が頭上から降ってきて、三上は条件反射で書きかけの便箋の上に覆い被さった。
「…なんだよ」
そういえば宛名以外一文字も書いてなかった便箋を、隠す意味が果たしてあったのだろうかという事をちらりと思いながらも、同部屋の友人が帰ってきたことにさえ気付かなかった自分の集中力に同時に辟易した。いや、帰ってきたことにさえ、っていうか、こいつが一番の問題、なのだ!クククと小さく笑いを押さえる気配を背後に、三上は机に突っ伏したまま悪態をついた。
「死ねっ」
「断る」
歯切れ良く返事を返した渋沢の声の向こうで、カサリという紙の擦れるような音がして、三上は一瞬耳を疑った。思わず耳を澄ますと、今度は明らかにガサガサという音がはっきりと耳に入ってきて、いやな汗が背中を伝う。
「……」
三上は恐る恐る上体を起こした。右手はさりげなく便箋の表紙を閉じながら、ゆっくりと振り返った…、その目前、で……
「なななななななな、な、なにやってんだよてめえっ!」
床に散らばっていたグチャグチャに丸められていた便箋をとりあげ、今まさに皺を伸ばそうとしていた渋沢の手を認めて、ひったくるようにそれを奪い取った。勢いで椅子から立ち上がった姿勢で、ハァハァと肩で息をする。
「…落ちてたから、何かと思ってだな…」
「惚けてんじゃねえっ!顔が歪んでんのが隠せてねえんだよバカッ!」
「…本当か?」
「しるかッ!プライバシーの侵害だ!訴えてやる!」
「訴えるって…、子供か…」
「うるさいうるさいうるさい!だああああ、言ってる側からさわんじゃねえよッ!!!」
渋沢が足下に転がっていた紙屑を拾い上げるのを見て、また慌てて奪い取る。何か面白いものを見るような目つきで渋沢は目を細めると、また足下の紙屑を拾い上げて広げにかかった。三上はまたすごい勢いでそれを奪いとる。また渋沢が……。
「…あそんでんじゃねえよッ!!!!!!」
「はは、やっぱり?」
「やっぱりじゃねええええええッ!!!!でてけっでてけっ俺の部屋からでてけっ!」
「残念!ここは俺の部屋でもあるんだ。生憎俺はキレイ好きでな」
「知るかッ…!!!」
渋沢の体をグイと強引に押しやろうと背中を押したその時、渋沢のはくジーンズの後ろポケットに何の飾り気もない、真っ白な封筒が無造作に差し込んであることい気付いて、三上は手に入れかけた力をそろそろと緩めた。
「…つーか、お前も書いてんじゃねえか」
途端に萎えた気分でボソリと呟くと、不思議そうに振り返った渋沢の視線から目をそらして、三上は床に散らばった紙屑を拾い上げ始めた。
「は?あ、ああこれは…」
「何もいうな。わかってるから」
「いや、だから…」
「いいって、しつけえよ」
「…母親からの手紙なんだが…」
「しつけ、え、……はあ?」

なんだ、と口の中でもごもごと呟いて、なんとなくほっと胸を撫で下ろしかけたその時、
「まあ、ラブレターも書くけどな」
という追い討ちをかけるような言葉が降って来て、三上は思わず体を強張らせた。
そしてたっぷりの間をおいて、ゆるゆると屈んでいた腰をあげ、さらに顔をあげると渋沢の満面の笑みと視線がぶつかって、思わず寒気に身震いする。
「気の毒だが…三上に勝ち目はないな」
「なっ……!」
思わず絶句すると、渋沢はそれに楽しそうに笑い返した。
その人を食ったような笑顔に条件反射でむっとして、三上は思わず喧嘩腰に身をのりだす。
「てめえみたいなかたっくるしい文章に、誰がクラっとくるかっつーの」
「読んでもいないのにそういうこというのはどうかと思うぞ」
「へっ、読まなくてもわかるね。俺様の文章力にかかったら、どんなのも屑だぜ」
「ほう、たいした自信だな…、是非一度読んでみたいものだ」
「てめえになんか誰が見せるか」
「なんだ、自信がないのか?」
「…っ、せえよ!とにかく!お前にだけはぜってー負けない」
「その言葉、そっくりそのまま返す」

渋沢の不敵な笑みに心持おされつつ、三上は負けじとひきつる口角を上げて笑い返してやった。

そうやって火花のとびちる2人の背後で、突然。
バン!と勢いよくドアが開いて、いつもノックをしろと言っているのにそれを一度も守ったことのない後輩が、まるで弾丸のように飛び込んできた。思わずビクリと身体を振るわせて、けれど反射的に三上はそれに怒鳴り返す。
「馬鹿代っ、ノックしろつっ、」
「先輩、大事件!!間宮に彼女ができたんすよ!!!」
「んなんどうでも……、え?まじ?」

 


「しかも年上!
とかいう3年の…」

 

 

「…………は?」

ガサリ、と思わずよろめいた自分の足が床の上の紙屑を踏んで、その音が三上の耳の奥で際限なくこだまする。
カサリ、と小さな音をたてて、床に落ちた白い封筒が傍らの渋沢の手から滑り落ちていた事にも気付かず、三上はただ呆然とした。



橙色の太陽が、グラウンドの芝の上にサッカーゴールの長い陰を作りながら背後で静かに暮れていく。今日も、またいつもと変わらぬ暑い1日も、静かに終わろうとしていた。

 

 

 

Fin.