夕焼けがやけに映える日。
あたり一面の橙色にくっきりと暗い陰が落ちるタイルを見下ろすと、決まってあの日のことを思い出す。
「別れよう」そう切り出した彼の声音。不自然な長さで足下に伸びる影。それから、
「うん」、2人の間にやけにはっきりと響いたその二文字。彼はまるで私の言葉に拍子抜けしたかのように、「え、いいの?」と、苛立たしいだけの言葉を返した。私はただ無言でうなずいて、彼の運動靴のつま先が触れているタイルの模様を、黙然と視線でなぞっていた。

ついでに思い出せば、彼は夕焼けが好きだった。橙と黒というまるで相容れないような二色が融合するその色と、それがもたらす1日の終わりが好きなのだと言って、彼は笑った。そんな些細な事を覚えているのは、彼が彼自身の好きなものを口にするなんてことは、後にも先にもこれ一度きりのことだったからだ。

そうして今日も、夕焼けが身に染みる。足早に踏みしめたタイルの模様は、悲しいほどに2年前と同じだった。


ただ少しだけ、色あせていた。

 


The Sky dyed red by SUNSET
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97. 明日の行方 

 


彼の名前は、藤代誠一と言った。文武両道をかかげる我が武蔵森学園の、まさしく鏡のような人間だ。教師受けもすこぶるよく、かといって優等生然としたところがなく、それどころか悪巧みの頭目のような人間でもあった。自然、生徒受けもすこぶるよい。我が学年きっての有名人、それが彼の肩書きだった。そして、その名声は高校3年になった今も色あせることはない。



別れた次の日から何の戸惑いもなく変更された呼び名に、いつしかすっかり慣れていた。、と呼ばれていたそのことの方が幻想であったとそう思える程に。
「…何?」
そうやって呼びかけられると、それまでいくら笑っていても不機嫌な表情を取り繕って振り返るのが、まるで定型のようになっていた。それは付き合ってからと、その前の態度から比べると笑える程に真逆の態度だった。けれどその間に、大きな心境の変化があるわけではない。振り返るに、私は彼に憧れを抱きすぎていた。今は彼が人間に見える、それだけの違いだ。
「授業いかねえの?」
「行ってほしくないの?」
机の中から出したリーダーの教科書とノートをトントンと揃えながら、私はやんわりと言い換えた。
「うん」
私は思わず苦笑をもらす。彼は、その場に合った適切な態度のとり方というものを心得すぎている。私は肩で大きく息をついて、諦めたように手にしていたノート達を机の上に放り投げた。ガランとした教室に思った以上の音が響いて、私は思わず肩をすくめた。


あんた達、おかしいよ。とは、友人の言説だ。別れた二人が次の日から、まるで普通に友達を演じるのはどう考えたっておかしい。という。けれど実際のところ、できているのだから仕方がない。嫌いになって別れたわけではないのだ。ましてや喧嘩別れしたわけでもない。お互い納得の上での別れなのだから、何もおかしいことはないと思う。
別れた最大の理由は、方向性の違いだった。よくバンドとかにあるじゃない。解散理由は方向性の違いです、っていうやつ。あれと同種のものだ。私は彼に、支配されることを望んだ。彼を好きになったのは、その完璧さと強さからだった。弱味をみたかったわけじゃない。支えになりたいと思ったわけでもない。ただ、圧倒されたかったのだ。その完璧な威光の前に跪きたかった。けれど、彼はそんなことを望んではいなかった。


ようするに、彼はただの人間だったのだ。


教室の後ろを占めるロッカーに背を預けると、がたんという音が響いた。電気を消した教室は薄暗い。床に伸ばして座った足に絡まるスカートを直しながら、立ったままの誠一を見上げた。
「座んなよ、見つかるよ」
言いながらシャツの裾を引っ張ると、彼は案外素直に引っ張られるままに腰を降ろした。見回りの先生が教室を覗いても、この位置に座っていれば机が邪魔になって見つからない。そこはそういう場所だ。
「あ、つーか、ポテチ食う?」
「ポテチ?めっずらし。お菓子なんか食べるんだ」
「はあ?あったり前だろ、俺だってジャンクフードが好きなお年頃ですよ、
さん」
「だって、前に好きじゃないって言ってたじゃない」
「ば〜か、そんな好みなんて日によって変わんの。常識だろ」
「貴方の常識は大概の人には通じないって知っておいた方がいいと思うよー」
ほい、と目の前に差し出されたポテトチップスの袋から一枚掴んで、無造作に口に放りなげた。噛み砕く。口内に広がった塩味に、なんとなく何かを思い出す。
「それにこれは、誠二からの貢物だし」
「弟?かっわいそー、奪われたんだ」
クスクスと笑いながら、もう一枚ポテトチップスを口に運んだ。パリっという爽快な音。塩味。




―――ああやっぱり、塩味は否応無く何かを連想させる。




別れた次の日から普通の友達に戻った事に、何の違和感もなかったのは確かだ。それは確かだったけれど、私は誠一ほどに割り切れてはいなかった。ふと気付けば彼の姿を目で追ってしまう自分を、彼の発した声に反応してしまう自分を、押さえつけることに必死だったのだ。けれど誠一はまるでそんな努力を踏みにじるかのように、私を見つけては近寄ってきた。時には「一緒に帰ろう」とさえ言ってきさえした。彼はそういう、ある意味で残酷な人だった。そう言われて、私が決して拒めない事を彼は知っている。その強引さは、私が愛した彼の一部だったのだから。
そうして私達2人は、夕暮れに染まった空の下連れ立って家路についたものだった。そういう時の誠一は、可笑しいくらいに大人しかった。彼は学校ではよく笑って、喋って、暴れて、そして自分勝手に振舞った。それが全て彼がそうしようと思って―――、つまり巧妙に張り巡らされた意図の上に成り立っている姿だということに気付いたのは、そんなある日の夕刻だった。

「みてみて、夕日!」
足下ばかりを見て歩いていた私は、突然何かに突き動かされるような衝動に駆られ頭をあげた。すぐ左手に盛り上がった土手のせいで空は3分の2程遮られていたけれど、まさにその方向から濃淡を描いて広がる橙色に、右手の空に残った僅かな薄水色が飲み込まれようとしているところだった。私は思わず足を止めた。あの橙色の光源を、つまりは土手の向こうに広がる光景を、どうしても見たいという衝迫に駆られ、前を行く誠一を引きとめようとした。けれど、振り返った誠一の発した言葉に、その必要が無かった事を知る。

「こっち行くわ」

土手に横たわるコンクリートの階段を指差し、彼は真顔で言った。

誠一は事実、よく笑う。一方でけれどそれはどこか白々しかった。彼はよく暴言を吐く。けれどそれもどこか白々しかった。笑うべきところで笑い、怒るべき場所で怒り、悔しがるべきところで悔しがる。それは確かに人間の模範ではあったけれど、1個の人間としては完璧すぎていた。笑うべき場所で笑わないこともあるだろう、逆に怒るべき部分で笑うことも、あるはずなのだ。けれど誠一は例外なくそれを否定する。それは、彼が彼自身で演出していた完璧さだったと、それにようやく気付いたのはその時だった。

階段を登る彼の足が、徐々に早くなるのを見、そしてその瞬間、私は息を呑んだ。言葉に載せた感情ではなく、けれどその浮かれたような足の運びに、

待ちきれないという彼の感情を、

彼の剥き出しの感情を、確かにそこに見た気がしたのだ。

思わず呆然と階段の真ん中あたりで立ち止まった私を、彼は階段の頂上で振り返ると、
「夕焼けって、いいよなあ」
逆光の中で、笑った。




―――ああ、そうだ。彼は夕焼けが好きだ、ということを知ったのは、別れてからの出来事だったっけ。




「何かあったの?」
私は相変わらずロッカーに背中を預けたまま、ぽつりと呟いた。隣に、誠一の規則正しい息遣いを感じる。
「別に」
突き放すように返された言葉に、けれど私は
「あっ、そう」
とあっけなく引き下がった。
しかし私はわかっていた。私を呼び止めるその事自体、彼に何かがあったということの証拠なのだ。あの夕暮れの日以来、それまできっちりと向き合おうとせずに逃げていた、本当の彼の姿を受け入れようとそう決めたのだ。彼は私がかつて憧れていたような、完全無欠な人間ではないのだ、と。
けれどこの先彼がどんなに心を許したとしても、内心を吐露する事はないのだろう。なぜなら、彼は自分の内側に不満や悩みや葛藤を溜めておくことで、自分のアイデンティティを保っているような、そんな人間なのだと思うから。内と外とに、完全な線を引く。黒か、白か。YESかNOか。

彼の世界は、きっと明白だ。

あの夕焼けを見た次の日、彼は小学校からずっと続けていたサッカーをあっさりやめた。次期主将と噂されていた彼の突然の退部は、そのところ何の浮かれた話題もなかった学園に大スクープとなって広がった。周囲の引き止める声が、彼の態度が強硬な物だと知ると次第に非難の声に変わり、そしていつしかそれに触れることがタブーのようになった。

「万能だからこそ、限界があるんだ」

何でやめたの、と無粋な質問をした私に、彼は吐き捨てるようにそれだけを言った。それ以上の事は何を聞いても、答えてはくれなかった。黒か白か、悩んだ挙句の答えだったのだろう。


「ねえ、今日は夕日がきれいそうだよ」
立ち上がった私は、教室の窓の外を見上げた。
その声につられたように、誠一が顔をあげる。何となく差し出してしまった手を不思議そうに見つめられて、さてどうしようかと途方に暮れかけた時、別の体温を手のひらに感じた。確かめるように見下ろせば、それは誠一の手で。私はそれを戸惑いもなくぎゅっと握り締めると、思いっきり力を込めて引っ張り上げた。窓枠に寄りかかるようにして空を見上げると、誠一がまるで私に寄り添うように身を乗り出した。長袖シャツの腕が乱暴に捲くられて、そのせいで剥き出しになっている肘から下の肌に目を奪われる。かつて抱きしめられた力強い腕と、胸の厚さ、すがりついた肩のその感触を、忘れたわけではなかった。

そして多分、今も、どうしようないくらいに欲している。

「あのさあ、」

なんとなく今日は大胆だった。彼の悩んでいる原因を、今回ばかりは知っているという微かな優越感がそうさせたのかもしれない。職員室で盗み聞きした。出席日数が足りなくて、指定校推薦が取れなかったこと。黒か、白か。白に決めたらどこまでも真剣になる人だという事を、私はしっている。誰よりも知っている。くだらない優越感だ。比べるものもない、ただのくだらない、……。
生返事を返す誠一にかまわず私は言った。
「たまには中間色があってもいいんじゃないの」
黒でも白でもなくて、グレーとかさ。

夕日が好きだ、それは1日の終わりを示すから。そう言っていた誠一を思い出す。
「明確な線で、区切らなくてもいいんじゃないの」
1日という単位も、それに付いてくる明日という概念も、しょせん時間の流れの中に故意に線を引かれ、区切られたものでしかないのだ。そこにあるのは今の延長であって。明確な線をそこに引いてしまうのは、少しつまらないんじゃないだろうか。今日と明日の間に中間色の線を引いて、さてどっちに転ぶかとわくわくするのも、楽しいとは思いませんか。

誠一が、呆れた顔をして言う。
「そんなギャンブルな生き方、だけしてればいい」
私はそれに、弾かれたように笑った。

でもね、藤代くん。
私達の関係も、貴方の苦手な、玉虫色ってやつに近づいてると思うんだなあ。

「誠一」
呼びかけた声に彼が振り向くのをまたず、「好きだと思う」。まるで他人事のように言葉を放り投げた。そうしてその時、タイミング良く響いたチャイムのリズムに合わせ、鉄筋の窓枠を手にしていた携帯電話で叩いた。


カーン、カーン、カーン、カーン


空は、真っ赤に燃える、情熱の橙色に染まっていた。

 

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