冷菓
私は小さなため息1つ。両手を腰にあてたまま、足下に転がっている人間の形をした塊を見下ろした。
「…ねえ」
つま先で小さくつっつくと、うるさい、とでも言うような低いうめき声がもれる。
「あのさあ」
あきれたように肩をすくませて、私は生ぬるいアスファルトの上に腰を降ろした。ミュールの足を投げ出して、未だうつぶせに転がったままの塊を一瞥する。
「なにやってんの?」
……本当に、理解に苦しむ。
大学のキャンパスで見かける時にはいつだって涼しい顔で「いい男」を気取っていると思えば、下宿先に戻ってみれば一転、よれよれの服とぼさぼさの髪、そんな酔っ払いみたいな塊と化している。酔っ払いだって、こんなボロアパートの屋上で寝転んでいたりはしないだろう。それが、わが大学の野球部エースときたら。困ったものだ、と私は好い加減呆れ疲れて目の前の黒い頭をボンと叩いてやった。
「…ってえよボケ」
おまけに口も悪いときたもんだ。困ったものだ、本当に。
「裏表のある人間なんて最低だと思いますよ、先輩」
「残念、そこが魅力的なのよ、ってようこちゃんが言ってたもん」
「誰、ようこちゃん」
「しらね」
あーとかうーとかいう変な声を発しながら、野球部エースは体をゴロンと回すと仰向けになった。きっと気持ちいいのだろう。今日は負のつけどころのないくらいの晴天だ。
「山田」
不意に名前を呼ばれて、私は空に向けていた視線を慌てて下に落とした。
「お前、何でここにいんの」
ここは私のアパートでもある。いてはいけない理由なんかないはずだ。屁理屈を通そうとして口を開きかけて、けれど
「なんで」
としつこく重ねた相手の調子に、私は少しだけ泣きそうになる。隠すことに何の意味もないこともわかっていた。頭がいい上に勘のいい先輩が、私がこうやってここにいる意図に気付かないわけはない。私は早々に観念して、目の前の人にそっくりな、それでいて頭がたりなくて勘だけは異常に発達していた、元同級生の顔を頭に思い浮かべた。
「……誠二くん、プロ入り決定だってね」
おめでとう、としらじらしく祝辞を述べると、誠二くんの兄はゴホゴホとわざとらしい咳を返した。私はそれを見下ろしながら、言ってしまったことを少なからず後悔する。この人はどうしてこんなに不器用なのだろうか。見ている私の方が切なくなって泣きそうになるとか、そういうこと、この人はわかっているのだろうか。
いや、わかるわけはない。だって周りの人間だってみんな、この人ほど完璧な人はいないと信じて疑わないのだから。
幸か不幸か、大学だけじゃなくて中高の出身校までもが一緒だという、思わず抹消したくなるほどの共通点を持つ藤代先輩と知り合ったのは、それでも大学に入ってからのことだった。存在は知っていた。だって、うちの学校では本当に有名人だったから。頭もいいし、スポーツ万能だし、ノリもいいし、顔もいいしで全女子生徒の憧れの的だった。それはもう、笑っちゃうほどに。
だけど私はどこか、この人を好きになれないでいた。
妙な違和感がして、しょうがなかったのだ。だからあれほど中学の頃熱中していて、将来はプロを約束されていたようなものだったサッカーも、高校になってあっさり止めて野球を始めたと聞いた時も、そんなに驚きはしなかった。
この人は、そう、多分完璧でいることを選んだのだ。
「ま〜あいつなら当然だろう」
先輩はあっけらかんとした口調で言うと、大きな生あくびをした。
「…先輩も当然プロになってたと思うけど」
「俺?なるよ。ドラフト指名されっから」
「違う、そっちじゃなくて…サッカー」
私は少しだけイライラを募らせて、語気を強めた。
「あのさあ、お前……うざい」
迷惑そうにため息をついて、先輩はゴロリと背をむけた。
私は埃で白っぽく汚れてしまった黒いポロシャツの背中を凝視しながら、喉の奥から込みあげてきたその言葉が零れ落ちないようにと唇を噛み締めた。
『サッカーやめたの、誠二くんに、負けると思ったからでしょう?』
ゆっくりと口の中で反芻して、それから唾と一緒にごくりともう一度飲み込む。ロックのウイスキーを喉に流し込んだ時のような、焼けるような熱さとジリジリする苦さがして、私は小さく咳き込んだ。
「なんか甘いもんかってきて」
長い沈黙の後。何の前触れもなくむくりと起き上がって、一体何かと思って身構えれば。先輩は無邪気に笑いながら私を振り返った。白い歯が、褐色の肌、黒い服、黒い髪の中で妙に眩しく見えて、思わず目を細める。
「…お金は?」
咄嗟に口をついた一言に、先輩はああ…、と面倒くさそうに呟くと、ジーンズの後ポケットに手を伸ばししわくちゃな千円札を取り出した。
「ほい」
無造作に差し出され、私はそれを受け取ると汗をかいてべとりとした手の平でぎゅっと握り締めた。しわくちゃだった千円札が、そのせいで余計ぐしゃぐしゃになったけれど、そんなことは知ったことではなかった。
「なんか、って何」
「なんでも。…あ、やっぱアイス」
なんで私が行くの、という問いが出掛かって、寸でのところで思いとどまる。所詮かっこうつけてみたって、私も他の女の子たちと一緒なのだ、逆らうことを言って、このひとが機嫌をそこねるがただ怖い。
ただ、怖い。
好きになれないでいたのは、ただ、どうしようもなく惹かれていることへの反作用だと、一旦そう気付いてしまってからは、転がり落ちるのは簡単なことだった。冷たい一瞥でさえ、見られているというその事実に胸が躍る。照りつける直射日光を黒いポロシャツに一身に浴びて、それでいて涼しげに空を仰いでいる先輩を屋上のドアを開いてもう一度だけ振り返ると、鉄筋の階段を音を立てて駆け下りた。
「せ〜んぱい。買ってきたよ」
馬鹿みたいに一目散にコンビニに向かって、アイスを選ぶのに10分かけて、戻ってきてみれば先輩はさっきとてんで同じような格好で寝転んでいた。
「ご苦労。……お、やるねお前。今いちごが食べたいと思ってたんだぜ」
「違いますよ、先輩はこっち。それ私の」
「……ガリガリくん?」
コンビニの袋の中からもうひとつのアイスをつまみ出して、呆然とした顔で呟いた先輩の表情がおかしくて、私は思わずふきだした。
「だって、なんでもいいっていったでしょー」
私はパカッという音を立てて、イチゴミルクのカキ氷の蓋を開けた。ひんやりとした冷気が立ち上ってきて、ほうっと小さく深呼吸する。
「そうだけどさ…、ていうかおまえ、おつりは?」
「……あ、忘れてた。…はい、ごちそうさまでした」
「…まて、それもしかして俺のおごりになってんの?」
「先輩って頭いいですよねえ」
「や、そんなこと聞いてないし、ていうかだったらそれ俺のじゃん」
「あっ!」
俺のじゃん、という言葉を言い終わらないうちに、さっと伸びてきた先輩の手が、私の手の中にあったアイスをあっという間に掠め取った。気付いたら軽くなっていた掌を私は瞬間凝視して、それから目をあげると、何時の間にかうしろを向いて体育座りしている先輩の背中を睨みつけた。
「ひどい」
「うん、どっちがひどいのかといったらお前の方がひどいだろうな」
シャリシャリと先輩がカキ氷を砕く涼しげな音がかすかに耳に届いた。その音につられるようにして、私は中腰になって少しづつ先輩に近寄ると、背中越しにアイスを見下ろして
「ずるい」
と呟いた。
先輩はただ迷惑そうな顔でカキ氷を口に運んでいる。
「ガリガリくん溶けるぞ」
突き放すような語気で発せられた言葉と共に、木のスプーンに乗せられた赤い色のカキ氷が迫ってきて、私は一瞬ギクリとして思わず硬直する。
「早く食えって」
困った様にただ赤い氷の塊を見ていた私に、先輩が痺れをきらしたように振り返りもせずに言った。私はあわてて、先輩の背中ごしに前に乗り出すと、先輩の耳の横あたりに差し出されたカキ氷を口に含んだ。シャリっと小さな音をたてて氷を歯でくだくと、口内の温度でそれはすぐにただ甘ったるいだけの液体になった。
「うまいだろ」
先輩が得意そうに言った。
私は身を乗り出した勢いで手をかけた先輩の肩を、なんとなく離せないままに「うん」とだけ返した。太陽の熱を集めた黒い布地が、アイスを握っていて冷たくなっていた手の温度をまるでゆるやかに侵食していく。
「あつい、」
と呟いたら、先輩が小さく唸った。
いまだに肩に触れているその手を、邪険に払い除けられることなしに、まるで黙殺されているその事に私は安堵した。
口の中に溜まっていた甘ったるい唾液を、私はゴクリと飲み込む。そうしてもう一度だけ口にしようと思っていた、誠二くんのこともきれいに飲下す。
触れることの許されたそれ以上のことを望んでも、この人は決してその先を許しはしないだろう。そうしてそれに甘んじている私は、冷菓のようなものだ。ただ、黙って、先輩の温度に溶かされることを静かにまっている。
そう、ただ待っている。
「俺、野球すきだよ」
先輩のうなじに、汗がつたった。
Fin.
2005.08.09 (藤代誠一)
三上の気持ちはわかっても、他の人の気持ちはわから〜ん(´8`)…ていうか、わっかんないのはあったりまえだろ…!後姿しか見たことNAI!