パキン、という足元で起こった小さな音が木々に木霊して辺りに大きく響き渡る。私は本能的に、びくりと身を縮めた。反動で、斜めに肩にかけた空っぽの虫カゴが少しだけ宙に舞った。
私は上を向いて、Tシャツの袖で額の汗をぬぐった。目にはいった天井は、目に痛いような真っ青な空でなく、目に優しい深い緑色に満ちていた。その緑色をぬって、太陽の光が幾筋もの細い糸となって地面まで届いている。その間を縫うようにして、鳥のさえずりや虫の鳴き声が聞こえてくる。
聞こえている、たしかに。
けれど何故こんなにもこの森が静かだと、自分の出した音にビクリとしてしまうほど静かだと、そう思うのだろうか。
20040827
視線を前方に戻した数メートル先、前を行く少年の背中が揺れた。クルリと振り返る。振り返ったその瞳は、遠くてあまり見えなかったけれど、確かに不機嫌そうだった。
「おっせー!」
響いて聞こえたその声に、私は理不尽さを覚えてむっとした。お腹にぐっと力を入れて、怒鳴り返す。
「そっちが、早いんでしょう!」
「はっ!おまえがのろいんだろ、いいから早く来いって、いくぞ」
「いやだ」
「…はあ?何いってんのおま」
「私ここにいるから。行っていいよ」
私はイライラした口調で、少年の方を見もせずに言った。そう、私は確かにイライラしていた。暑さに、理不尽さに、少年に、そして何も考えずについてきてしまった自分自身にたいして。もしもいつもの1日だったら、今頃縁側に座って氷をさくさくとスプーンの裏で崩しながら、その冷たさを舌で遊んでいたはずだろう。それを、今の私ときたら見ず知らずの少年に怒鳴られながら汗ダラダラで森の中を歩いている。
…あー、なんだってこんなことに!
*
そもそもの始まりは、本屋でみつけた自由研究の本だった。
いや、もっと大きな過ちは、私が夏休みを利用しておばあちゃんの家にやってきてしまっている事かもしれない。
東京から3時間ちょっと電車に揺られて到着する、四方を山に囲まれた緑豊かな町である。
長い休みにはここでほとんどその期間を過ごす、それが私の小学校からの習慣だった。
ようするに、体のいい厄介払いというやつだ。私が毎日家でゴロゴロしていては、親も気が滅入るのだろう。
でも私はそれなりにこの町を気にいっているし、何よりもおばあちゃんが好きなのでそれなりに楽しく毎日を過ごしている。
………今日をのぞいて、は。
そう、確かに、始まりは今朝、ふらりと立ち寄った本屋さんで見た自由研究の本だった。自由、ということほど厄介なことはないのだと、この時ばかりは思い知らされる。せめてテーマが決まっていたら、どんなにか楽なことだろう。はぁ、とため息をつきながら、それでもやるんだったら並以上のものをしたい、と思ってその本を手にとった。何気なくパラリと開いてみて、開いたまさにそのページを見て、一目でビビっときたのだ。よし、これにしよう、と。
蝶々の標本を作ろう、と。
今振り返ってみたら、何がそんなに魅力的だったかわからない。さっぱり、わからないのだ。それにそれが並以上の研究だとは、今の私には到底思えない。
たぶんその時の私には何かがのりうつっていて、これだ!と確信した私はそのままの勢いで本屋を足早に後にした。向かった先はなんでも屋さん。蝶を採るためには、虫取り網と虫カゴを手に入れなくては、そう思って一目散で向かったのだ。
「おじちゃーん!虫取り網とカゴくださーい」
はいよ、と奥で声がして、しばらくして少し白髪の混じった髪を揺らして、人のよさそうなおじちゃんが顔を出した。そして入り口で突っ立ったままの私をみつけて、にこりと微笑んだ。
「いらっしゃい、ちゃん」
それほど大きくもない町だ。1ヶ月もいれば、そしてそれが毎年続けば、たいがいの人たちは私の顔を覚えてていてくれる。私は丁寧に挨拶を返してから、虫取り網とカゴをください、とまた繰り返した。おじちゃんは、ああはいはい、ちょっと待ってね、と言い置くとまた裏の方へ行ってしまった。
手持ち無沙汰になった私は、床や棚に所狭しと並べられた、収納ケースやらスポンジやら鍋やらをぐるりと見回した。ちょうど目線が風呂桶をとらえた時に、背後のドアがガラリと乱暴な音をたてて開いた。
私は振り返った。
そこには、おそらく自分と同じくらいの年の、男の子がドアに手をかけて立っていた。男の子と目が合う。私は反射的に軽く会釈した。けれどその男の子は私を一瞥しただけですぐに視線を店の中に移すと、ちょうど虫取り網とカゴをもって奥から現われたおじちゃんに声をかけた。
「おっちゃん、虫取り網ある?」
「お、坊主。虫取り網?あー、すまん、これで、ちゃんので、最後なんだ」
おじさんは困ったように肩をすくめた。少年はチッ、と舌打ちした。
「…使えねー」
「ははは!しょうがないだろう、虫取り網なんて今日び売れねえのさ、そんなに仕入れちゃおけねえよ」
「なんだよ、そこらへんにあるもの全部売れてねえじゃねーか」
「売れてるさ、ただ売れても同じところに同じ物をまたおくからシロートにはわかんねえのよ」
私は埃を被った雑貨に目を落として、思わず吹き出しそうになる。
「…どーでもいいけど、ほんとにねえの?虫取り網」
「残念だけど…。あ、代わりに洗濯網なんてどうだ?」
「いらねえっ!」
「あのー…」
私はおずおずと2人の会話に口を挟んだ。少年とおじちゃんはそこで初めて私の存在に気付いたように、はっとして私を振り向いた。
「私、別にそんな切実にアミが欲しいわけじゃないんで」
ゆずります。自由研究は他にもあるし。なんせ自由なわけだから。
2人の視線に押されるように後ずさりしながら言った私の言葉はしかし、おじちゃんの「あっ」という短い叫び声にかき消されてしまう。
「いいこと考えたぞ」
おじちゃんがにやりと笑った。
「2人で仲良く虫取りに行きゃーいいじゃねえか!」
(「…は?」)
思わず呆然としてしまった私の心を代弁するように、少年が呆れた声で言った。
「…はあ?意味わかんねえよ」
「じゃあ坊主、お前はこのいたいけなおじょうさんから虫取りアミを横取りするっていうのかい?」
「…いたいけなおじょうさんが虫取りなんかするかよ。…わーかったよ、あきらめる」
それでいいんだろ、少年はぶっきらぼうに答えた。
「い、いいの!ゆずる。ほんとに、そんなに必要じゃないし」
私は、聞き捨てならない台詞を黙殺して、あわてて少年にアミを押し付けた。
「いいって」
少年はアミを押し付けた私の手をぐっとアミごと押し返した。
「いいの、ほんとに」
「いいって」
「おねがい」
「いらねえって」
「もらってよ!」
「いらねえっつの!」
「なんでよっ!」
「……………だーーーーッ!わかった、わーった、行けばいいだろ、行けば!行くぞ虫取り!」
少年は一瞬頭を抱え込んだかと思うと、突然そうまくしたてて、店の引き戸に手をかけた。私はキョトンとしたまま、相変わらずにやにや笑いのおじちゃんと、背中を向けたままの少年を見比べた。少年が振り返る。
「ほら、いくぞ!」
「え、え、え、うん、え、なんで…?」
動こうとしない私に少年は、はあ、と大きなため息をついて頭をかきむしった。
「だーかーらっ!お前は俺にゆずりたい、俺はお前にゆずられたくない、これじゃあラチがあかねえだろ?だったら一緒に行くしかねーじゃねーか!」
私はキョトンとしたまま少年を見上げた。
「…だってそれは、あなたがもらってくれれば…すむはなし」
「だからっ!俺はゆずられたくねえの、お前が折れれば話がすむんだよ」
「……」
私が思わずぐっとつまって俯いたとき、ずっと静観していたおじさんが突然大きな声をたててわらった。思わずびくりと肩が跳ねる。
「ははは!ふたりとも若いのに頑固だねえ!その頑固さに免じて代金はチャラにしてやろう!楽しんでおいで」
少年が小さく舌打ちした。
「ほら、行くぞ」
私は判然としないまま、けれどなんとかおじちゃんにお礼を言って店を出ると、おずおずと少年の背中に従った。
時刻はまだお昼前。道の右側に、家々がつくる陰が道の続く限り、遠く遠く連なっていた。
*
そうして今、私はこうやって森の中に座り込んでいる。だいたい私は蝶々が取りたかっただけなのだ、なのになんでこんな森の奥に。考え出せばキリがない、イライラは募る。さっき木の枝にかすって切れてしまった膝の傷がチリチリといたんだ。
「…おい」
呼びかける声に、私は顔をあげた。少年が、心なしか肩を上下させて自分を見下ろしていた。私はその不機嫌そうな顔をみて、どこかほっとした。おいていっていい、と言ったものの、もし本当において行かれたらどうしようと、内実すごく心細かったのだ。
「…いいのに、先行ってて」
「んなわけいかねえだろ」
少年はどさっと無造作に地面に腰を下ろした。そして何をするとも、喋るともなく、少年は虫取りアミのアミの目を確かめる様なしぐさをしていた。私は仕方なく虫カゴの紐をいじくる。
沈黙。
鳥の鳴き声と、木々の揺れる音と、虫の鳴き声は絶え間なく聞こえる。
しかし、沈黙。
チチチチチチチチチ……………
ミーンミーンミーンミーン…………
ザザザァァァァァァ………
「…ねえ」
鳥のはばたく音に背中を押されて、私は沈黙を破った。
「…あ?」
「なんていうの、名前」
私の問いかけに、初めて少年は私達がお互いの名前も知らないのだと言う事に気付いたように、一瞬目を丸くした。
「…あー、三上」
「三上、なに?」
「おしえねー」
私はむっとした。やっぱりこいつは、性格が悪い。
「あ、そう」
「お前は?」
「え?」
「名前」
「…」
私は一瞬ドキリとした。
なぜって、少年が、少し、ほんの少しの間だけだけれど確かに笑ったから。
…なんだ、笑えるの、このひと。
最初に会った時からずっと不機嫌な顔を絶やさなかった少年の笑顔に、私は思わずぽかんとしてしまった。
「吉川、ね」
三上は何故だか楽しそうにそうつぶやくと立ち上がった。
「のどかわかねー?」
「あ、うん、少し」
三上がゆっくりとした動作で立ち上がる。見上げた私の視線をはずして、三上はいくぞ、と小さく呟いた。その声にひっぱられるようにして、私は素直に立ち上がった。不思議なことに、さっきまで私を包んでいたイライラはどこかに消えてしまっていた。
――――きっと、マイナスイオンのおかげだ。うん、きっとそうだ。
なんとなくその理由はわかったけれど、それを認めるのがイヤで見当違いな結論で自分を納得させた。
「そういやーさ」
前を行く三上が、手にもった虫取りアミをクルクル回しながら背中越しに言った。私は盛り上がった木の根っこや雑草に足をとられないようにと地面を凝視しながら、答える。
「なにー?」
「おまえ、虫取りアミで何とろうと思ってたんだよ?」
「…聞くの遅いよ」
「おまえが言わなかったんだろーが!」
「ちょうちょ」
「は?」
「蝶々とって、標本にして、自由研究にしようと思ったの!」
「…しょぼい自由研究だな」
「うっさい。…で、三上は何探してるの?ていうか私たちは一体どこへ向かってるの?」
「はは!なんかお前、記憶喪失になったやつみてーなこと言うのな」
「誰のせいだっつーの!」
「ってぇな!殴るなよ!仮にもいたいけなお嬢さんだろ」
「あんたは一言余計なの、もてないよ」
「…おまえも大概人のこと言えなくないか」
「で、何とろうとしてんの?」
「うわ、話そらした。…ハイハイ、睨むなって。オオクワガタだよ」
「ぎゃっ!」
オオクワガタ、に驚いたわけでは断じてない。
突然、ガクッと視界がずれて体が宙に投げ出されて、それに対する反応として、私は声をあげたのだ。次の瞬間、私は土の地面に体を投げ出されるはめになった。
要するに転んだのだ。しかも、派手に。
体全体がジンジンする。汗で湿った体に、土がこびりついて気持ち悪い。――――そして何よりも、三上の視線をかんじて私は起き上がれない。
きっと呆れた顔をしているに違いない、そして不機嫌に怒るのだろう。
「…おい、大丈夫か?」
けれど聞こえてきた三上の声は、予想に反してひどく心配そうな響きを持っていた。私は余計おきあがれなくなってしまう。怒られたのなら、それに言い返せばその勢いを借りておきあがれる。でも、でも……
「おい、…?」
三上がしゃがみ込むのが気配で分かった。私はぎゅっと目をつぶる。この人に心配をかけさせるわけにはいかない、仕方なく私はそろそろと上半身を持ち上げた。
「…うん、大丈夫」
「たてるか?」
「うん、多分」
三上はさっと立ち上がると、さも自然な手つきで私に手を差し出した。私は一瞬ためらって、けれど自力で起き上がるのはどうも大変そうな事に気付いて渋々その手をとった。グッと引っ張られて、立ち上がる。けれどもその瞬間、右足首にするどい痛みが走って私は小さく悲鳴をあげた。
「なっ、どうした!?」
三上が慌てて手をゆるめる。私はどさっと地面にしりもちをついた。
「や、なんか足ひねったみたい。…あ、でも多分たいしたことないから、ちょっとしたら治るから、先行ってていいよ」
私はちょっと笑って、そう言った。
三上は私の言葉にはあ、と大げさにため息をつくと、
「まーたあんたはそういうこと言う!おいてけるわけねぇだろ!あほか!」
と怒鳴った。
私はその剣幕に圧されて、言うつもりもなかったのに、思わずごめん、と呟いてしまった。
「あー、わりぃ、何怒ってんだ俺、意味わかんねえ……とりあえず、帰るぞ」
そう言ったかと思うと、三上はクルリとその場で回転して私に背中を向けた。そしてそのまま、しゃがみこむ。
「え…」
「背負ってやるよ」
「え、え、でも…」
「私おもいからー、とか言うなよ。俺を誰だとおもってやがる」
「…三上」
「…ビンゴ。いいから早く乗れ」
「だって、オオクワガタ…」
「んなもん別に今日じゃなくてもいいだろ、それにそんな簡単にみつからねえんだから、今日も見つからなかったと思えばそれだけのことだって。…早く乗れって」
「じゃ、じゃあお邪魔します…」
どうやっても三上の心は変わりそうにない、私は観念して彼の背中に自分の体重をあずけた。首に腕をまわす。彼はたつぞ、と断ってからゆっくりと立ち上がった。
私の心臓は、どくどくとうるさいほどに波打っている。
だって、同い年の男の子の背中なんて、初めての体験で――――――――ドキドキしないはずがない。
お父さんの背中よりも小さい、けれど案外頼りがいのあるその背中に、私はそっと体の力を抜いた。目の前で、黒髪が揺れている。
「お前、おもっ」
「…うっさい」
じんわりと伝わる三上の体温が、私の体温と混ざり合って汗がじんわりと流れる。暑い。暑い。暑い。でも、どこか心地が良い。
「ねえ、なんていうの、下の名前」
「教えねえ、って」
「ケチ。田舎もんのくせして」
「何気にひどいこと言ってねーか、お前」
「田舎もんは、お尻に穴あけて、つぎはぎした半ズボンはいて、学生帽みたいなのかぶって、必死で自転車こいでればいいのよ!」
「…俺今、お前の考えてることが手にとるようにわかったんだけど」
「…なに」
「そのイメージ、トトロだろ…」
「ふん」
「かっわいくねーの」
「田舎もんに言われたくない」
「でも俺、生粋の田舎もんじゃねーよ、残念ながら。普段は東京にいんの」
「え、そうなの?」
「おーよー」
思わず乗り出してしまって、そのせいで少しずり落ちた私の体を、三上がよいしょ、と掛け声をかけて背負い直した。斜めにさげた、空っぽの虫カゴが宙に舞う。
耳をすませば鳥の鳴き声と、木々の揺れる音と、虫の鳴き声と、それにまじって微かに三上の息遣いが聞こえる。
「ね、じゃあ私の名前教えてあげるから」
「やだ。それに俺知ってるし、お前の名前」
「…へ?なんで?」
「あのなんでも屋のくそおやじが言ってたじゃねえか」
「…あ、そか」
「、だろ」
「…うむ」
なんだか気恥ずかしい、と思った。
気恥ずかしくて背中のあたりがくすぐったくなったから、それをごまかそうと思ってチラリと目に入ったうなじに息を吹きかけた。
「おわっ!お前なにやってんだよ、気色わりぃ…!」
「ぎゃはは!三上くんおっかしー!あわててやんの!」
「ばっ!あわててねえよ!…落とすぞ!」
「ぎゃー!やめてえ!」
「ばーか、慌ててやんの」
けけけ、三上が変な声をたてて笑った。
「…ねえ、オオクワガタ今度とってきてね」
「おーまかせとけ」
「一緒に行ってあげてもいいよ」
「ばーか、お前なんか頼まれても連れてかねえよ」
「あ、っそ」
絶対に名前をつきとめてやる、私が意地になったらそれはもう、すごいんだから!私はTシャツの袖でぐっと額の汗をぬぐった。三上の髪の毛が、汗に濡れて首にはりついている。そういえば、お礼を言っていない、背負ってくれたお礼、を。
「…ありがとう」
「何、急に…熱でも出たか」
目の前の黒髪が、木漏れ日を受けてキラキラと光った。その光が頼りなげで、私はふっと不安になった。思わずぐっと首にまわした手に力を込めたら、三上が苦しそうにうめいた。空っぽの虫カゴが、また宙に舞った。
パキン、枝の折れる音が辺りに響く。
それは、ひとつの小さな夏のおはなし。
虫取りアミと、虫カゴから始まる、小さな恋の…たぶん、物語。