『まって!』
と背後で叫ばれて立ち止まる程、私は素直で、忍耐力があり、従順で、思いやりがあるわけではない。
むしろ、すたすたと、まるでそれがただの雑音かのように処理して歩いて行ってしまう人間だ。
けれどこんな私でも、心が痛む事はやっぱりあるのだ。
「まって!」
「やだ」
キルトの肌触りがするボード上のますめの一番角に、「バチッ」という音と共に黒い方を表にしてプラスチックのコマを置いた。
それから小気味良く白いコマをパチン、パチン、と裏がえしていく。
その動作が完了したとき、ボード上の二つの勢力の軍敗は一目瞭然だった。
「げえ、また負けえー?」
手に残った何枚かのコマをじゃらじゃら言わせながら、結人が渋い声で言った。
「・・・・の、ようだねえ」
私は他人事の様な態度で答えると、コップのジュースを口に運んだ。
「お前、強すぎだよ・・・・何かコツとかあんの?」
「ないない、そんなもの」
言いながら、お手上げ、のポーズをする。
「・・・もっかいやろうぜ!」
「ええー?」
ものすごく嫌そうな顔をして、嫌がってみる。そうすると結人は、必死に、あの手この手で私をゲーム盤に再び向かわせようとする。私はこのかけひきが好きで、だから、ゲームとしては面白くもない(何故ながらいつでも私が勝つから)オセロを、結人と度々やったりするのだ。
結人が私の誘いにのるのは、多分、受けた喧嘩は買おうじゃないかという精神、というよりもむしろ私に勝てないことがよっぽど悔しいのだと思う。証拠に、いつも最初に誘うのは私だけど、その後もっかいやろう!といって引き伸ばすのは、いつだって結人なのだ。
「…だって、もう15回目だよ?」
わざとおおげさに、ため息をついてみせる。
「あと1回だけ!あと1回やればきりがいいだろ!」
「…どこがどうきりがいいというの?」
「ばーか、16といったら4×4だろ!これ以上きりのいい数字があってたまるか!」
「…なんか、縁起わるいんですけど」
私は腹をかかえて笑い出したいのをこらえて、すごくしらけた調子でつっこむことを試みる。この駆け引きでは簡単に、手のうちを見せてはいけないのだ。いくら心が、痛むとしても。
「わかった!ほら、お前、俺のジュースの氷をやるよ、喜ばしいだろ!」
「喜ばしい、という以前に、それ、うちの氷なんですけど…ついでに、このお菓子も、コップも、結人が座ってるソファも、全てうちのだからね」
あたりまえだ、なんせここは私の家なのだから。もっとも、結人の家は隣なのだけれど。
「わかった、今度、頼まれたら絶対見たい番組録画してやるから、な!」
「そんなの、おかーさんに頼むからいい」
「よし!じゃあ今度、懸賞に応募するとき、俺も手伝ってやるから!」
「や、いい。勝手に名前つかえばいいだけの話だから」
「…使ってんの?」
「……え」
「…使ってんの?」
「……まあ」
「はーいー!見逃してやるからもう一度やりまショ!」
結人は勝ち誇った顔で、ゲーム盤に白いオセロをふたつ、おいた。
「まって、でもさ、使ったけど。確かに使ったけど。でもさ、当んなかったし。結人の名前、つかえないし」
「うわー!今さっらとひどいこといいませんでした?ちゃん」
「いいませんでした」
「全否定かよ…!いいよ、もう、ほら、いいからオセロおいてごらん」
「手が動かないんだもの」
「らっきー♪じゃあ勝手におく」
オセロを盤の上に置こうとする結人の手をがしっとつかんで、私はそれをなんとかくいとめようとする。しばらく宙で葛藤して、けれど、やっぱり男の子の力にはかなわなくて、おしきられてしまった。
「いいよ、もう。ひとりでオセロやればいいじゃん」
「何スネてんだって、ほら、好きなとこ置けよ」
「やだ」
結人は多分やさしくて、私はただ単にわがままなだけなのだと、そう思う。
結人は私の言葉に、少しだけ困った顔をして、ジュースを一口、ゴクリと飲んだ。
「…わかった。何でもしてやるから」
ため息まじりに、でもまんざらでもなさそうな顔でそういう結人を見て、私は満足する。いつだって、この言葉を聞くために私はこの駆け引きを楽しんでいるのだから、結局のところ。
「何でも…?」
「…何でも」
表の道路で、車が通りすぎる音がした。それが遠くに消えてしまうのを待ってから、私は笑って言った。
「キス、して」
そして結人の、次の瞬間の顔をまぶたの裏に思い浮かべた。