この雨があけたら、春が来る。


催 花 雨


 

 雨は、昨晩からずっと降り続いていた。
 絶え間なく地面に落ちる雨粒が気まぐれに虚空に跳ねて、それが繊細な水しぶきをたてる。三上はぼんやりとその軌跡を眺めながら、ブランコに預けていた体重をゆっくりと移動させた。従順なブランコは、錆付いた音をたてて前後に揺れた。
 当たり前だけれど、公園には誰もいなかった。猫の一匹さえもいない。唯一耳に届くのは、雨が地面をうつ音と、ブランコの軋む音だけだった。踏み荒らされた公園の地面は、窪んだ場所に雨が溜まって水溜りの温床になっている。
 全身が、まるで鉛のように重かった。開いた傷口に当る雨が、弱った体に刻みつけるように沁みる。じりじりと追い詰められるような、ひどく意地の悪い痛みだった。息ひとつするのにも苦痛で、ぼろぼろの身体がそのたびに悲鳴をあげた。ブランコのチェーンを掴む手は、もう既に感覚がないほどに凍えていた。身体を支えることさえ気だるい。このまま目の前の泥の中にダイブして、いっそ朽ち果ててしまったらどんなに楽だろうか。そしたらあいつは、一体どんなふうな反応を見せるのだろう。見ものだな。
 …という考えに至ったところで、不意に、水溜りを踏む足音が公園の均衡を掻き破った。顔もあげずその音にチッと舌打ちをすると、その拍子に口内の傷口に歯があたって軽く身悶えた。その間に近づいてきた足音が、三上、と自分の名を呼ぶその前に、
「…来んな」
 搾り出すような声で、けん制した。
「三上」
 怪我してる。けれど相手はそんな虚勢を歯牙にもかけず、三上の目前で足を止めると淡々とそう呟いた。それに舌打ちを返そうとして、けれど先刻の痛みを思い出してぐっと堪えた。かわりに足元の水溜りを思いっきり蹴りつけてやる。
「知ってる」
「だろうな」
 とぼけたような声にカッとしたその瞬間、ふっと雨粒の気配が遠のいて、思わず肩をこわばらせた。おそるおそる見下ろした地面は、自分の足元から半径30センチくらいの間隔で雨がぴたりとやんでいた。ゆっくりと顔をあげる。そして視界に入った黒い傘と、その下の渋沢の顔を全霊で睨みつけた。
「…帰るぞ」
「嫌だ」
「お前またそういう子供みたいなこと…」
 はあ、と呆れたように吐き出されたため息に、妙に苛立ちが募った。
「だから、帰れって。俺のことなんて気にしなくていいつったろ」
 けんか腰にそう言い返すと、相手は少し驚いたように目を見張る。差しかけられた傘の端っこでまるで当然のように濡れている渋沢の肩が、憎たらしくてしょうがなかった。自分はその傘のおかげでどこも濡れていないというのに、だ。まるで探るような視線をよこす渋沢から逃げるように視線を外すと、
「わかった」
 と静かに渋沢が言った。その簡潔な、いや簡潔すぎる台詞に一瞬拍子抜けして、三上は慌てて泳がしていた視線を渋沢にもどす。
「わかった」
 もう一度彼は確認のようにそういうと、手にしていた傘を三上に押しつけるようにして強引に渡し、すばやく半歩後退した。
「……渋沢、」
「心配するな、心配はしないから。早く帰ってこいよ」
 ん?心配するな、心配はしないから、ってなんかおかしいな、と一人ごちて、渋沢はくるりと身体を翻した。
「ま、まて!」
 咄嗟にかけた一言に、渋沢が立ち止まる。中途半端に持たされていた傘の柄が、風にあおられて宙に舞った。
「うそ、なんでもないっ…、行け」
 忘れていた痛みが、雨に打たれたそのせいで突如全身に蘇ってきて、三上は苦痛に身悶えた。そしてこんな状態の人間を置いていくのか、人でなし、と、まるで滅茶苦茶な言葉をその背中に投げつける。
 どうしようもなく我侭なことを言っていると、自分でもわかっている。
 ただ、同じくらいどうしようもないのだ。ここにこうやって自分を見つけ出してくれる渋沢を、ただ、手放したくなくて、ただ、それだけで、どうしようもないのだ。どうやったら繋ぎ止めていられるかとか、そういうことを必死で考えて、情けないくらいに足掻いてる。呆れられてもいい、軽蔑されてもいい、だけどお願いだから、この手を振り切らないでほしい。
 ―――お願いだから。
「…どっちだよ、はっきりしてくれ」
 何も俺はお前を置いていくと言ってるわけじゃないんだ。呆れた声でそう付け足しながら、渋沢が振り返る。
「ちげえんだよ、お前は行ったほうがいいんだ、だから行け、…だって、」
「だって?」
 渋沢が、丁寧に反復する。
 三上は答えかけて、一瞬躊躇して、けれど結局口にした。
「…お前のこと、襲いたくなって我慢できねえから」
 渋沢がぎょっとしたように目を見開く。
 不意に雨が地面を打つ音が耳の中によみがえって、三上は身体をこわばらせた。
 渋沢の、何かを問うような視線から逃げ出すように目を伏せた。本気である事を、暗に示したつもりだった。
 しかし、落ちる沈黙には耐え切れず、額に張り付いた髪の毛から水滴がぽたぽたと落ちるのをただ無心に目で追った。

 長い沈黙の末、冗談だよ、と言ってしまおうかと思ったそのタイミングで、ザッ、というスニーカーが砂利を踏みしめる音が響く。その音に、三上は思わずびくりと身体を振るわせた。

「…絶句した」
 渋沢がやや放心したように呟いて、正直な声の響きに三上はそっと胸をなでおろした。
「してねえじゃん。しゃべってるし」
 苦笑した渋沢の手が、飛ばされた傘を屈み込んで拾う。
「…安心しろ、そんな状態のお前にヤられるほど俺はやわじゃないからな」
 やんわりと否定されて、三上はそれにわざとらしく笑い返した。想定の範囲内だ、と思った。
「渋沢、…あ、今頭が全然働かねえから、何いってるかとか深く考えないからな、渋沢、一回だけでいいんだ、……俺とヤッてくれ」
「そんな前置きすること自体確信犯なんじゃないのか。それにそれなら断る。俺はホモでもゲイでもない」
「…おい、それいってえよ」
「俺のポリシーだ。その気がなかったら、後腐れないようにすっぱりと断る」
「断った時点で後腐れがあったら?」
「……」
 覗きこんだ渋沢の目が奥の方で僅かに揺れて、そこに動揺を見た気がした。傘を差し出されたその手から柄をとるかわりに手首を握って、強引に引き寄せる。
「渋沢、好きなんだ」
「……」
「渋沢」
「……」
「なあ、渋沢」
 懇願するように引き寄せたその胸に頭をこすり付けると、汗と雨が混ざり合ったような深い匂いがした。この匂いになら溺れてもいい、とてんで関係のないことをふと思う。
「……それでお前は満足するのか」
「うん」
 鼻の奥がツンとした。
 触れ合う渋沢の温度が、涙腺をやんわりと刺激する。その刺激が、腹のそこに埋まっていた黒い塊のようなものを溶解させていく気配がして、三上はゆっくりと目を閉じた。
 春雨が身体を包む。
 不意に寒気が襲って、三上はぶるりと身体を震わせた。凍えた体に、渋沢の温度は悲しいほどに魅惑的だった。
「……わかった、…いや、だめだ」
「どっちだよ」
 渋沢の逡巡にふっと笑って、その背に腕を回す。触れた背中は三上と同様びしょびしょになっていて、少しだけ罪悪感が募った。
「…困ったな」
「困ってていいから、しばらくこうさせて」
 耐え切れず鼻をすすると、答えのかわりに渋沢の手が三上の頭にぎこちなく触れた。その手が水の滴る髪の毛をすいて、その優しい手つきに涙がでそうになった。
「とりあえず、どうしてこんなにボロボロになってるのか聞かせてくれないか」
「あれ、言ってなかったっけ」
 こっそり渋沢のシャツに鼻をこすりつけると、渋沢が困惑したような息を吐き出した。急に愛しさが募って、ぎゅう、と力の限り抱きしめる。文句の声は雨の向こうに掻き消えて、ただぬくもりだけが手の中に残った。
 けれど同時に響いたキィ、というブランコが軋む甲高い音が、心の隅に不快な波紋を広げる。
「渋沢、」

 渋沢、春が来るよ。
 この雨がやんだら、春が来る。
 明けない夜はなく、止まない雨もないんだろう?
 この雨がやんだら、春が来る。
 そしたら渋沢、お前、―――いなくなるんだろう?



 肩を打つ雨に、めまいのするような優しさを感じて、傷をえぐる雨粒が、息もつけないほどに愛しかった。

 


Fin. 20060303

 

 

 

 

 

 

 

 

怪我してる必要はどこもないんじゃないか…?という思いでいっぱいですが、なんせ書き始めてみたテーマが春雨と弱ってる三上だったので…、しっ、しかたないよね(^∇^)喧嘩でもしたんじゃないかと思うよ〜(丸投げ)