いつか昔にも、こんな風景を見た気がする。


そして、巡る


 ついちょっと前、俺らがまだ高校生だったころ。練習が終わって1人ボールを蹴り続ける俺を、渋沢はああやって遠くから眺めていた。日が傾いて夕日に染まるグラウンドで、長く伸びた渋沢の影がそこにあることにどこか安堵を覚えながら、いつまでもボールを蹴っていた。
 三上は不意にあさっての方向にボールを蹴ると、それを追うようにして体を反転させた。
「…なにしてんの」
 ボールは芝を転がって、ちょうどタッチラインあたりに立っていた渋沢の足もとでぴたりと停止した。
「元気そうだな」
 問いには答えず、はぐらかすようにして渋沢は笑った。三上はうさんくさげに眉を寄せてから、靴紐を直そうとしゃがみ込んだ。夏と秋の境目が運ぶ、心地よい風が素肌をさらってゆく。
「…まあいいけど。お前、こんなとこでぶらぶらしてていいわけ」
「ここにいるってことは、いいってことなんじゃないか」
「そういう狸オヤジみたいな答え方、やめてくんねえ?」
 ははっ!渋沢は何が可笑しいんだかひとしきり可笑しそうに笑ったあと、降参、とでもいいたげに両手を挙げた。
「やめるから、説教はやめてくれないか」
「ハイハイ。何でここにいるのかも、聞いちゃいけないってわけですかね?」
 靴紐を結び終えて立ち上がると、呆れたように肩をすくめてやった。どうせ渋沢がここに来る理由なんて、ひとつしかないのだけれど。
「…おごる」
 渋沢は俄かに真面目な顔になって、返事のかわりに短くそう言った。
 まったく、のれんに腕おし、ってやつだ。嫌味のひとつも通じない。まあ、こいつが他人の事情を考えないなんて、今に始まったことじゃないけど。それにしたって、自分が頼めば俺が二つ返事で快諾するなんて思い込んでいるあたり、傲慢にもほどがある。
「あったりめーだろ」
 大げさにため息をついてから、足元のボールを宙に浮かせた。うんざりする。つまるところ、渋沢を調子に乗らせる原因を作っているのは、他でもない俺、以外にない。
「―――ただし、ちょっと付き合え」
 今夜の飲み会をキャンセルする言い訳を考えながら、三上は渋る渋沢の腕を強引に掴んだ。

 高校を卒業してから、もうすでに3年が経っていた。
渋沢はプロ3年目、俺は大学に入って3年が過ぎようとしている。四六時中一緒にいた高校の頃とは打ってかわって、環境も変われば住む場所もかわる。もっとも、「離れる」という実感もわかなかったし、中学のころから6年間、築きあげてきたこの関係が、そう簡単に崩れるとは思わなかった。だけど、どこかで、日々の忙しさにまみれて次第に薄くなってゆくのだろうと思っていた。少しづつ、少しづつ、あの頃の思い出が色あせて、そしていつか「そういえば」という枕詞と一緒に思い出すだけの思い出になるのだろうと。
 それなのに、3年がたった今も、渋沢はこうして隣にいる。
 まあ、糸一本でつながっているような、危うさではあるけれど。それが幸いなのか不幸なのか、俺自身もわかりかねている。
 ただ、これだけは事実だ。俺はどうあっても、渋沢を拒むことはできない。そして渋沢も、多分、そんな俺に甘えている。


「何か予定があったんじゃないのか?」
「あったよ」
「悪いことをしたな」
「思ってもないこと言うんじゃねえよ」
 携帯をしまいながら半分呆れながらそう返すと、渋沢はとぼけたような顔をしてメニューに目を落とした。平日とはいえ、駅前の居酒屋はこの時間になるとどこも満席だった。なんとか見つけて入った居酒屋は、いつもは避けるような照明を暗く落としたムーディな雰囲気の店だった。
「…お前、よくこういうとこ来るの?」
「ああ〜、うん、まあたまにな」
 誰と、という問いを喉の奥に押し込めて、ふうんと気のない相槌を打った。
「カンパイ」
「何に?あ、そうか、退院オメデトウ」
 何気なくそういうと、渋沢が驚いたようにグラスを持っていた手を止めた。
「レギュラー以外の選手の状況なんていちいち把握してない…、じゃなかったか」
「してねえよ。でもこないだ、山田さんに会ったんだよ」
 嘘をついた。山田さん、渋沢のチームメイト、と同時に俺たちの先輩でもある。会ったのは事実だ、でも渋沢のことはこれっぽっちも聞いてなどいない。種あかしは簡単だ。本当は逐一情報を集めてる。電話なんてする習慣はないし、渋沢と連絡が取れたときにだけこうやって会うから、当人に尋ねるよりも自分で集めた方がよっぽど正確で楽だった。
 それに、と思う。当人はこうやって隠したがるし。
「ああ…」
 合点がいったように呟いた渋沢は珍しくあからさまにがっかりしていて、少し苛めてやりたい衝動に駆られた。
「がっかりした?それにお前が俺んとこ来るのって、だいたい調子悪い時だからわかるよ」
「すまん」
「や、なんで謝んだよ?…自覚はあるわけだ。俺はいいように使われてる。そういうこと?」
 女々しいことを言っている。酒が入ると愚痴が多くなるのは俺の悪いくせだ。そう思ったけれど、言ったことを訂正する気はなかった。このところ、ずっと思っていたことだ。俺がこの関係を断ち切れば、俺たちはこうやって宙ぶらりんのままでいる必要はないんじゃないかと。俺はいい。一生このままでも、構わない。だけど、渋沢は。
 ただ、逃げ込む場所を作っているだけのような気がする。それは、決して渋沢のためにならない。
 …ちがうな。俺のエゴ、だ。
 こっそりため息をついた。俺は、多分、渋沢と一緒にいれること以上に、渋沢が成功することを願ってる。サッカーで。
「三上、…違う」
 短く否定した渋沢の瞳がどこか傷ついたような色に濁るのを見て、三上は言うべきじゃないことを言ったことにそこでようやく気がついた。焦って箸を置く。
「ごめっ、」
 慌てて取り繕おうとしたけれど、急にテーブルの向こうに座っている渋沢を遠く感じた。もどかしい。伸ばそうとした手をテーブルの上において、立ちあがった。
「出よう」





「なあ、あいつらと連絡とってる?」
「あいつら?」
 夜風が心地いい。ついこの間までは風が吹いても暑苦しいだけだったというのに、季節というものは気がつけば巡っている。
「中西とか、近藤とか」
「ああ、しばらく取ってないなあ」
「俺も。近藤は毎日顔合わせてるから別だけどな」
 そういうものなんだ、と思った。どれだけ毎日一緒に暮らして苦楽を分かち合ったとしても。離れ離れになって新しい生活に紛れてしまえば、やがてそっちの方が大事になるのだ。
「…懐かしいな」
「同感」
 月を見上げた。
 それにも関わらず、こうやって変わらずに顔を合わせてるというのは、偶然なはずがない。少なからず努力をしてきた。それは確かだ。


「なあ、手、繋いでいい?」
 少し前を歩いていた渋沢が、驚いたような顔で振り返った。声に出してみて、あらためて言うことじゃねえな、と思うと自分でも可笑しくなってくくっと笑った。
「…仕方ないな、今日だけだぞ」
 渋沢はやれやれ、とでも言いたげに面倒くさそうに手を差し出した。
「なんだよそれ、お前ハタチ過ぎてオヤジっぽさに磨きかかったよな」
 文句を言いながらも差し出された手を取ると、横に並んだ。街灯のない川べりの道は、月が照らす明かりで思いのほか明るい。子供のようにアスファルトに落ちる影だけを踏みながら、歩いた。
「それは褒め言葉か?」
「まさか」
「やめた」
 言うなり手を離そうとする渋沢を、慌てて両手で捕まえた。
「や、うそですうそです!」
 どうだか、といういぶかしげな視線で見られて、思わず愛想笑いを返した。
 次の角を曲がれば、もう三上の住むアパートだった。街灯もない物騒な場所に立つせいか、家賃はひどく安い。それよりも、部屋に入るなり渋沢を押し倒してしまいそうな己を自覚して、三上は意図的に歩みを緩めた。
 シラフのうちに、言っておきたいことがあった。
 いや、すでにアルコールが入っているから、シラフではないのだけれど。
 電柱の影を踏んだタイミングで、言葉が唇を出て行くことを許した。


  「……渋沢、一緒に暮らそうか」


 渋沢が、凍りつくように立ち止まった。三上も、正面を向いたまま立ち止まる。風はいつのまにか、やんでいた。あたりは妙に静まりかえっていて、繋がった手のひらから、渋沢の動悸が聞こえてくるような気がした。三上は目をつぶった。月の明るさが、薄いまぶたの向こうにある。

「…ちょっと、待ってほしい」
 まるで聞こえてなかったかのような長い間を置いた後、渋沢がぽつりと言った。
 勝手な話かもしれないけど。
 渋沢が取り繕うようにそう言ったけれど、ほとんど耳に入っていなかった。
 ほっとしたのだ。渋沢がふたつ返事でオーケーしなかったというそのことに。
 何故だか、ここしばらく張り詰めていたものが一気にほぐされていくような感覚を覚えた。ずっと、俺は渋沢にとって重荷にしかならないのではないかと、そう思っていたのだ。安堵した。渋沢が決して俺に依存していたわけではないということに、安堵した。俺たちは一緒にいて、ダメになるような関係ではないのだ。
 急に軽くなった足で、影ではなくて、月の照らす明るい地面を踏んだ。
「今日、家泊まる?」
「泊まらなくてもいいのか?」
 からかうような口調で言われて、思わずムッとした。次の瞬間襲った衝動に、それに逆らうことなく渋沢の肩を抱き寄せた。強引に唇を寄せて、唇を割る。あつい。触れ合った素肌よりも、渋沢の体の中はもっとあつい。弱いところを丁寧に舐めてやると、握ったままの手に力が篭るのを感じて、内心わらった。
 唇を離すと、渋沢が息苦しそうに荒い息をついた。いつもキスをすると、息を吸うタイミングがわからなくて、こうなってしまう渋沢を知っているのはおそらく自分だけだ。もう一度唇を寄せてチュっとわざと音を立ててキスをすると、にやりと笑った。
「…泊まりたくなった?」
 たちまち不貞腐れたようにそっぽを向く渋沢を、今度は声を上げて笑ってやった。


 いつか昔にも、こんな風景を見た気がする。
 満月の夜、渋沢と二人、寮へと向かう道すがら。あのときは何を話していたんだっけ。


   なあ、あの頃と同じ月が、今日も俺たちの頭上にある。


(Fin. 2007.09.20)