天井が迫ってくるような閉塞感と、胸が押しつぶされそうな圧迫感に呼吸が乱れる。洗剤の匂いが微かにのこるシーツに背中を擦り付けると、体の重みを受けてベッドのスプリングが軋んだ音をたてた。

 

 

希望という名の

残酷な調べ

 

 

 三上に欲情を感じたのは、一体いつが始まりだったろう。一緒に風呂にいかなくなってもう半年はたつから、多分それより以前の話だ。…いやちがう、正確にはいけなくなった、のだ。三上の裸体は、否応なしに渋沢のものを固くさせる。我慢などは到底不可能だ。性欲がコントロールできた試しなどない。
 三上に触れたい、と一旦思うと、感情はまるで雪崩のように欲望の渦の中に崩れ落ちる。人間は合理的な生き物などではない。
 けれど、いつだってギリギリのところで残った理性のかけらに必死にしがみついて、しがみついて、その結果気付けば欲望は後方に流れ去っている。一線を飛び越えるのはひどく容易なようでいて、けれど同じくらい難しい。人間は結果的に、合理的な生き物なのかもしれない。

 少なくとも、保守的な生き物だ。手に入れたいものは大切すぎて、失うリスクばかりが先行する。

 

 

 薄く開いたまぶたの向こうに見えていた蛍光灯が、不意に覆いかぶさってきた藤代の身体にふさがれる。それに緊張する暇は与えられずに、冷たい彼の指先が前触れなく下腹部に触れ、その温度差に渋沢は体をこわばらせた。猶予を与えるように一瞬肌を離れた指先が、けれど引力に従うように再び素肌を侵食する。肌を這う氷を思わせる冷たさに小さな恐怖を覚えて、渋沢はそれから逃れようと腰を引いた。藤代はその反応を見下ろして、ひどく面白くなさそうに鼻を鳴らした。
 その瞬間、恐怖は違う種類の恐れにとってかわる。見捨てられるのではないかという、もっと直接的でリアルな恐れ。渋沢は機嫌をとるように藤代に擦り寄ると、腰をゆらして差し出された手のひらに己をすりつけた。藤代は満足げな、けれど軽蔑を含ませた笑いをもらす。その笑いが、渋沢の肌に落ちて、そしてわきたった毛穴を通って感覚神経を刺激する。鳥肌がたつ。
 藤代は笑うのをやめ、露になっているそこへおもむろに手を伸ばした。指先が触れた小さな刺激が体中の全細胞を刺激して、渋沢は溜まらず声を漏らした。手のひらが、半立ちになったそれをねっとりと撫で付ける。義務的に性器を弄る藤代の手の動きにあわせて、先刻までとは違う温度で呼吸が乱れる。
 渦を巻く快楽に飲み込まれそうになる渋沢を見下ろして、先刻から一寸も違わない冷めた表情の藤代の視線が、わずかに芽生えた抵抗を放棄させた。胸を突かれたような痛さが熱をもって広がって、その感覚に渋沢はかみ締めていた唇をわずかに動かした。藤代の指が、容赦なく性器の先端に食い込む。瞬間、何か得たいのしれないものが自分の体の中で暴れ出すような恐怖に、渋沢は藤代にしがみついた。


 そこにあるのは単なる欲望の発露にすぎず、感情の入り込む隙間はどこを探したってなかった。


 行為を始めるときはいつだって、嫌悪が先行する。無機物をなでるような藤代の手には最初から愛情などなかったし、ましてやそれを望んでもいなかった。性欲を我慢するには修行僧のそれでもなしに、思春期の身には到底不可能だった。一度覚えてしまった快楽は、体の奥底にまるで染みこんでしまったようにこびりついていて、拒んでも拒んでもおそってくる。悪夢のように。だから、逃げなければいいのだ。逃げないものを、誰も追いかけてきはしまい。


 だいたいセックスが愛の証だなんて、そんなもの誰がきめたんだ?子供を作るのが愛の証だって?それではコンドームをつけてまでやるその行為に、なんの意味があるというのだ?
 これはギブアンドテイクだ、愛情の交換などではなく、性処理の。
 開き直ってしまえば、事は容易だった。思わず自分を揶揄してしまうほどに。


 例えばこれがただの妄想と、何の違いがあるというのだろう。ゆっくりと目をつぶる。素肌に触れる体温は三上のものだし、耳元で弾む吐息も彼のものだ。彼の指先がするりと滑らかに滑り、硬く閉ざされた肛門を押し開いた。心臓をわしづかみにされたような不快感に、ひくりと喉をふるわせる。
 「キャプテン、」
 耳元の声がいう。
 「幻想に惑わされてるよ」
 妄想は簡単に瓦解する。それは三上ではなかった。否、最初から三上などではなかったのだ。
「わかっ…っ!…わかって、る」
幻想が交差する。三上、三上、三上、とまるで馬鹿になったように思考回路が同じところをいったりきたりする。藤代が入れるよ、と余裕のない声で言った。どこか遠いところでその声を聞きながら、渋沢は朦朧とした意識の中でうなずいた。三上に向かって、うなずいた。間髪入れず大きな衝撃が渋沢の身体を襲って、やがて脳内は三上で満たされた。
これのどこが、自慰と違うというのだ?
そうして意識はいつも、真っ白な闇にのまれる。




「キャプテン、」
行為が全て終わった後に、髪に触れる藤代の手つきは常に優しかった。というよりも、優しくあってほしいと思っていただけかもしれない。快楽が去って胸を満たすのは、いつだって変わりのない虚無感と、泥沼のような自己嫌悪だった。それはおそらく藤代も同等で、このときばかりは同じ感情を共有していることを意識した。
三上は潔癖だ。こんな感情、表になど出せるわけがない。違う、出して嫌われることが、軽蔑された目で見られることが、否定されることが、ひどく怖いのだ。恐ろしいのだ。否定されることには慣れていない。慣れていないものには、等しく恐怖を抱くものだ。

 渋沢の髪の毛を無造作に梳いていた藤代の手が、ふと止まる。
「三上先輩の髪はさらさらしてるよね」
「…そうだな」
 フッと笑った藤代につられて、微笑を浮かべた。

 ―――ああ、そうか。
 セックスはその行為自体に意味があるのではなくて、それが終わった後にこそ意味があるのだ。

 

 

 そして最後には、必ず希望にも似た絶望を覚える。

 

 

 

Fin.