椅子をひく音が、放課後の教室に反響する。
その音に僕はほんの少しだけ肩をすくめて、腰を落とした。傾きかけた太陽の光と影が、机の上に迷彩柄を描いている。光源をたどった視線が窓をとらえて、次の瞬間飛び込んできた光のまぶしさに目を細めた。
「あと、30分」
そっと、言い訳のような、呪文のような言葉を口の中で転がした。
あと、30分。こうしていよう。委員会の仕事が思いのほか早く終わって、時間に余裕ができたのだ。このまま部活に行くのも、もったいない。
身体の力を抜いて、背もたれに体重をかける。黒板の上の時計が、ひとつ時を刻んだ。
(あーあ、)
今度は心の中で、ため息のように呟いた。
閉ざされた窓の向こうから、校庭で叫ぶ生徒の声が微かに聞こえてくる。けれど、それはどこか遠い世界の出来事のようで、まるで現実感がなかった。ここにあるのはただ、世界から取り残された身体と、静かに過ぎていく時と、静寂と、それから増えていくため息だけ。そして、心の中に広がるのは、とらえどころのない無気力だった。
のしかかってくる静寂から逃れたくて、指先で机の上をトントンと叩いた。
別に、何か上手く行ってないことがあるとか、そういうわけじゃない。中学にあがってもうじき1年がたつし、この環境にも大分慣れた。サッカー部だって、この間1軍にあがって、順調すぎるほど順調なのだ。でも、これでいいのか、という拠り所のない不安が、ピンポン玉みたいにいつも胸の中を跳ね回っている。けれど一体自分が何に対して不安を感じているのか分からなくて、その事実が余計心を苛立たせるのだ。
だから、だからなのだろうか。こうしてできるだけ部活に出る時間を引き延ばしたくて、こんなところでぼんやりしているのは。
(あーあ、…なんで、こんなに気が重いんだろう)
吐き出したはずの吐息が、ため息になる。
ほんの少し形を変えた机の上の迷彩模様を指先でなぞりながら、不安の正体について考えてみる。
サッカーが嫌いなのかといえば、そんなことはない。それに比べて、この世の中からなくなってしまえばいいのに、と思うものなんていくらでもある。たとえば、鳥皮。口に入れた時のぬめっとした寒気を感じる舌触り。カリカリに焼いたものでも、あの表面のぼつぼつはごまかしきれない。だいたい、なんで皮なんて食べるんだ。肉を食べればいいじゃないか、ほんとうに意味がわからない。それから、無理やり起こされる朝。自然に目が覚めるほうが心身のためにはいいはに決まっている。なのに、なんだって人は早く起きたがるのだろう。それから、嫌な音のするドア。親の小言。食事のメニュー。授業。人間関係。先輩、
(…ああ、そうだ。あの人)
ぼんやりしていた思考が、不意に色彩をともなって浮かんだその人物の形を、明確に描き出した。その顔を思い出すと妙に苛立たしくなって、思わずチッと舌打ちする。
他人のことなんて本当はどうでもいいんだけど。でも、あの人だけは僕の目の前からいなくなってしまえばいいのに、と思う。イライラするのだ。見ていて、イライラする。馬鹿みたいに必死に、賢明に、部活に、サッカーにすがりつくその姿に目をおおいたくなる。ポジション柄監督やコーチに毎日怒鳴られて、傷だらけになって、だけどその場所を守るためなら汚いことだってなんだってやって、馬鹿じゃないの。見苦しい。そんなに頑張ってどうすんの。
(ああ、やだ、考えるだけでイライラする)
カタン、と背後で音がした。
けれど振り返るのも億劫で、窓に目をむけたまま黙殺した。どうせ、間抜けな誰かが宿題を忘れてとりにきたとか、そんなところだ。
そう思って意識を再び思考に沈めようとしたとき、
「おい」
とひどく場違いな声が傍らでして、危うく椅子から飛び起きそうになった。
「おい、きいてんの?」
その場に凍り付いてしまったのは、声の主に心当たりがあったからというだけでも、そしてそれが1学年上の先輩だったからというわけでもない。
一向に振り向く気配のない自分に痺れを切らしたのか、背後の空気が動く気配がした。正面をむいたままの視界に、制服のブレザーが入り込んでくる。そしてそれはそのまま目の前を通過して、窓に近づいた。
その人がくるりと体を反転させるのを横目で追いながら、同じみになったため息をついた。
そう、凍り付いてしまったのは、今この瞬間この教室にいるはずのない人が現れたということと、それがつい今まで、心の中で思いっきり罵倒していた相手だったからだ。
「何やってんの、サボり?」
そう言って嫌な笑いを浮かべたのは、案の定、三上先輩だった。つい先刻まで心の中に浮かべていたその姿が、目の前の実像と重なって微かにぶれる。
「…委員会です。先輩こそサボりですか」
なんとか平静を装って、喉の奥から言葉を搾り出した。
「ちげえよ、俺は進路指導の帰り。で、お前は。委員会やってるようには見えねえけどな」
いちいちからかうような口調が苛立たしい。
「…終わったところです」
あんたには関係ない、と心の中で付け足して、挑むようにして相手を見上げる。窓から落ちてくる光がその身体に遮られて、光に慣れていた目がくらんだ。
三上は、どこか呆れた風にため息をついた。
「あのなあ、」
そこで一瞬困ったように言葉を切って、視線を窓の外に向ける。
簡単に逸らされた視線に、小さな優越と、敗北を感じた。
「そんな警戒すんなよ、別にチクろうってんじゃねえんだから」
「…そうですか」
できるだけ無関心にそういうと、三上が「ああ」とひどく小さな声で相槌を打った。
それが合図だったかのように、静寂が再び力を取り戻した。
時計の時を刻む音が、唐突に、ふたりの距離を遠ざけるようにして入りこんでくる。時を刻む秒針の音に合わせて、早く、と念じた。
早く、ここから去ってくれ。時間の無駄だろ、あんたの好きなサッカーが待ってるんだぞ。それに、僕は、あんたが嫌いなんだ。早く、
早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、
「お前さ、」
必死に念じていた言葉に重ねられて、思わず、「え」という言葉が洩れた。三上が、律儀にもう一度「お前さ」と言いなおす。
「もっと体力つけたほうがいいんじゃねえの。とりあえず、走ってこいよ、暇ならさ」
「…なんですか、それ」
眉根に皺をよせた。そっぽを向いたまま、どこか格好つけるように髪をかきあげるその仕草が、妙に神経を逆なでする。舌を打ちたい気持ちを何とか飲み込んで、代わりにため息をついた。この人に、そんなことを言われる筋合いはない。
先輩は僕の問いに、窓の外に向けていた視線をゆっくりと室内に戻す。そしてどこか面白そうな目で僕を覗き込んで、首をかしげた。
「んー、脅迫?」
瞼がぴくりと動いた。その言葉に思わず絶句していると、目の前の苛立たしい顔は、悪巧みを思いついた子供のような表情でにやりと笑った。
「お前この間もサボってただろ。あの時はバレて怒鳴られてたけど。最近お前やる気ないから、目つけられてるんじゃねえの。言ったらやばいかもな」
ぎくり、としたのが正直なところ。
なんで、なんだって、この人がそんなこと知ってるんだ?けれど、そんな動揺はおくびにも出さず。冷や汗を飲み込んで、無表情を繕った。
「さっき、チクらないって言ってませんでしたっけ」
「気がかわった。だってお前生意気だし」
「最低ですね」
「そう、そういうとこ」
本当に、最低だ。一体何が楽しいのか、肩を震わせて笑っている。なんなんだ、この人。
「なあ、練習、しろよ」
「あなたには関係ないです」
それから、あんたと話したくないです。もう、これ以上この人と話しているとおかしくなるし、時間の無駄以外の何者でもない。自分から強引に話を切り上げようと思って、立ち上がった。椅子が足にひっかかって、ガタンと予想外に大きな音が響く。
「逃げんの?」
「先輩がサボんなって言ったんですよ」
目を合わせないようにして、鞄を持ち上げる。
「…逃げるんだ」
その言葉にだったのか、追い討ちをかけてきた短い口笛にだったのか。わからないけれど、その瞬間、それまで必死に押さえていた感情の防波堤が決壊した。いとも簡単に。
「うるさい!!!!」
衝動にまかせて、鞄を思いっきり机の上に投げつけた。
「なんなんすか、さっきから何がいいたいんですか、俺の事なんて放っといてくださいよ、あんた関係ないだろ!!!」
怒鳴り声に近いそれが、教室に反響して耳にキィンと跳ね返ってくる。
三上先輩が目を丸くして絶句するのを、もうどうにでもなれ、と乱暴な気持ちで眺めながら肩で息をした。
「…関係、なくねえよ」
長い沈黙のあと、三上がポツリと言った。それは、どこか拗ねた子供のような口調で、思わず耳を傾けてしまう。
「俺、お前がいいんだもん」
「…………は?」
「お前が欲しい」
「…は?」
からかうな、と言うつもりで睨んだ視線が、ひどく真摯な瞳にぶつかって、先にすすめなくなる。形になりかけた言葉を、ごくり、と喉の奥に流し込んだ。
「お前さ、足速えーし。右利きなのに左足が異様に使えるし、しかもさ、いつも冷静で、今もなんか読めねーし?判断力もあんじゃん。それからキックが正確だから攻撃の起点になる。お前がいたらさ、攻撃のバリエーションが増えんだよ」
手から鞄がすべり落ちる。それは受け止め切れなかった机をすべって、くぐもった音をたてて床に落ちた。けれど、それを気にしている余裕はなかった。三上の予想外の言葉の意味を、頭の中で必死に処理する。
「…もしかして、褒められてます?」
そんなわけはない。たどりついた答えがまるで信じがたくて、一文字づつ慎重に発音した。三上は、一瞬驚いたように目を丸めて、それから苦笑した。
「素直じゃねえなあ、どう聞いたら貶してるように聞こえんの」
「だって、先輩は人のこと褒めたりしないと思ってました」
僕の言葉に、おかしそうに声をたてて笑った。
「お前、ほんとに俺のこと嫌いだよな」
「……知ってたんですか」
「気づかないなんて、それどんな鈍感だよ。でも、お前のそういう裏表がありそうで実はだだもれなところ、わりと好き。それに、俺自分の得になることだったら何でもするよ。藤代のことなんてベタ褒めだぜ」
いつになく饒舌な三上に、まともに取り合うのも馬鹿馬鹿しくなってため息をついた。
「なんであんたの得になるんですか」
「何いってんの、そんなん当たり前じゃん、勝ちたいんだよ。・・・ちょっとちがうか、試合をしたい。練習試合とかじゃなくて、テンションがあがるような公式戦を、いっぱいしたい。それには勝ち続けるしかないだろ。で、そのためにはお前が必要なの。もっといえば、もう少し成長したお前が必要」
そこで言葉を切って、窓枠から身体を離す。急に差し込んだ夕日に、思わず目を細めた。先輩はゆっくりと机に体重を預けて、秘め事のように囁いた。
「俺はお前がいいんだ。大丈夫、お前はもっと上手くなる、だからもっと頑張れよ」
お願いだから。
最後に加えられた言葉が、ひどく切実な響きを残した。その響きが、耳から体中にしみこんでいく。熱い、塊になって。
くやしい、この人からそんなことを言われるなんて。でもなんでだろう、胸が熱くなって、涙がこみ上げてきて、それを堪えるのに必死になる。
わかってる、最近抱えていた行き場のない苛立ちは、自分のふがいなさに向けられたものだって。トップ下というポジションが、どれだけ運動量を必要とするのかわかってる。そしてそれがチームの強さを基礎付けるんだってことも。それを維持するのに、この人は全身全霊を傾けている。悔しいんだ、それを恐れている自分が。それをできない自分が。
頭を叩かれる。あげた視線の向こう側にある強い瞳に、たじろぎそうになった。
「やれんな?」
「…はい」
でも、あんたの為じゃない。
「あたりめえだろ」
堪えていた涙が一粒、頬を流れる。見られるわけには行かないと思って顔をうつむけようとしたけれど、その前に伸ばされた手にそっと涙の筋をなでられる。
「ばーか、何泣いてんの」
「さっきと言ってること、違うじゃないですか」
何で、この人は僕の悩みを分かってるようなことをいって、違う、あんたは全然わかってない。
ねえ、僕は、あんたのそういうところが、大嫌いです。
「そうだっけ?」
とぼけたその返答を無視して、床に落ちた鞄を拾い上げる。黒板の上の時計は、この教室に来たときからきっかり180度、針をすすめていた。
「練習、おくれますよ」
返事を待たず、夕暮れの教室にゆっくりと背を向ける。やがて続いた後ろを追ってくる気配に、無意識に足を速めた。
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