君 の 眼 差 し




 どうしよう、と思った。


 いや、一番最初に思ったのは、寝たふりってどうやってするんだっけ、ってことだったかもしれない。あと、三上先輩何やってんの、とかそういうこと。そういう普通のこと。


 それから、どうしよう、と思った。


 カーテンは開け放たれていて、西に傾いた太陽が持てる力を全て注ぎ込みましたみたいな暴力的な光を部屋に注いでいる。学校と部活のわずかな間で俺は昼寝をするようにしていて、今日もそのためにベッドに潜り込んだのだ。寝つきのいい俺は、いつもすぐに眠ってしまうのだけれど。なぜだか、うまく寝れなかった。今日に限って。
 薄く開けた瞼の向こう、幾重にも重なった日光の筋に照らされるようにして、先輩がすわっている。あぐらをかいた膝や手には何ももっていないから、本を読んでるわけでもない。第一、さっきから視線はこっちを向いているのだから、そんなわけはないんだけど。  何をしているのかと考えても、答えはひとつしか浮かばない。


 だから、どうしよう、と思った。
 それがひとつの理由。だけど、思わず開きかけた瞼を閉じたのは、それだけが理由じゃない。見てしまったんだ。
 先輩の表情を。
 一見、それはひどく穏やかな表情だった。何か大事なものを見守るみたいな、そんな感じの。でも、そんな顔だって今までみたことがなかったから、俺は好奇心に駆られて、もっとよく見ようと思って薄く開いた目をこらした。
 部屋に舞い散る埃が、まるで紙ふぶきみたいにキラキラと先輩をとりまいている。
 三上先輩の顔が、ぼうっと日光に照らされて、スポットライトにあてられているようだった。わからないけれど、なんだかすごくその顔が泣きそうだって思った。よく見れば、肩が僅かに震えている。


 見とれた。その一瞬、綺麗だ、と思ったんだ。


 先輩が、目を細める。俺を見て。そうだ、先輩は俺を見てる。こんな顔で。
 だから、どうしよう、と思った。


   先輩の手が、布団の上に投げ出していた俺の手に触れた。案外に温かい先輩の体温が、手のひらを滑る。やばい。心臓がドキドキして、この音で寝たふりをしているのがバレるんじゃないかと思った。だから、余計ドキドキして、どうしようもない悪循環。とうとう堪らなくなって、思わず小さく身体をうごかすと、先輩の肩がびくりと震えて、ものすごい勢いで腕を引っ込めようとした。
 多分、しようとしたんだと思う。
「……っ!?」
 先輩が、声にならない悲鳴をあげた。
 無意識だった。
 気づいた時には、離れていく先輩の腕を、そうさせまいと握り締めていた。
 自分の手と、三上先輩を交互にみてから、やれやれ、と思った。俺は覚悟を決めて、起き上がる。先輩が動揺というか、狼狽というか、ひどい顔で目を逸らした。掴んだ腕を必死に引き離そうとして暴れてるのがなんだかおかしくて、思わず声をたてて笑った。
「ごめん、起きてた」
 暴れていた先輩が、怖いものでも見たように凍りつく。掴んだ腕が、僅かに震えているのを俺はわざと気づかないふりをした。
「…ごめん?」
 何も返事がないから、もう一度言ってみる。そうすると、三上先輩はぶんぶんと音がでそうな勢いで左右に首をふった。
「…んで、お前があやまるんだよ」
 消え入りそうな声に、思わず心配になって顔を覗きこんだ。背けられた顔は、表情まではみえなくて、けれど、
「先輩、どうしたの?顔赤い」
「……っ、〜〜!な、んでもねえ、よ!」
 今度こそ思いっきり振り切られた先輩の腕が、俺の手から離れて行った。手持ち無沙汰になってしまった手を、所在なく左右に揺らす。
「部活!時間だぞ!」
 怒ったように立ち上がった先輩を、きょとんとした顔でながめる。相変わらず顔を背けたままの先輩がおかしくて、また笑ってしまった。



 ☆ ☆ ☆



   たまたま部屋の前通りかかったらさ、ドア開けっぴろげてお前が寝てるのが見えたから、起こそうとして。でもお前があんまり気持ち良さそうに寝てるじゃん。ギリギリまでいっかって、まってたんだ。お前が寝坊したら、なんとなく罪悪感じゃん。俺が起こさなかったから、って思うだろ?


 ほら、言い訳は完璧だ。
 あとは自然な調子でそう言って、お前が突然起き上がるからびびったんだ、って笑えばいいんだ。そうすれば、俺は馬鹿みたいに悩むこともなく、わだかまりも綺麗さっぱり、普段どおりの調子で接することができる。
 できる、のに。
 そんな単純なことなのに。
 お前が何も聞いてこないから、あのときなんで部屋にいたのかって聞いてこないから、俺は言い訳ひとつできなくて、あれから何日たった今もひとりでぐるぐるしてる。何でもないふりをしたいのに、あのときお前がいった「ごめんね」が何故だか心にひっかかって、どうしていいかわからなくなる。


 なあ、お前一体何考えてんの。


 自販機の前で真剣に悩んでいる背中を、じっと睨んだ。制服のシャツ一枚ではそろそろ寒くなってきて、カーディガンを着ている藤代を少しだけ羨ましく思った。
「早く選べよ」
 一向に押されないボタンにしびれを切らして、ため息まじりで背後から声をかけた。
「あれっ、三上先輩!?」  藤代の顔が完全に振り向くその前に、点滅したボタンのひとつにさっと手を伸ばした。ガコン、というペットボトルが落下する音が響くのと、振り向いた藤代と視線があったのは同時だった。ちょっとだけ得意げに笑って、取り出し口からペットボトルを取り出す。
「悪いな」
「…えっ?えーーーー!?ひどい!なんで爽健美茶なんすか!」
「お前選ぶの時間かかりすぎなんだよ。何飲むの?」
 そこかよ、と言って笑った。
 ペットボトルの蓋をねじって、そのまま一気に乾いた喉をごくごくと潤す。今の時期には自動販売機の温度は冷たすぎて、どこか違和感がする。
「コーラかジャンジャエール…あ、買ってくれるんすか?」
「いや、聞いただけ。おまえなんでいつもそんな身体に悪そうなやつばっか飲むの」
「先輩こそ、なんでいつもそんなじじくさいやつばっか飲むの?」
「喧嘩売ってんのか」
「だって先輩が俺のコーラとるから!」
「とってねえし、コーラでいいんだな?」
 返事を聞く前に、手の中の100円玉を二枚投入口に滑り込ませる。ボタンを押すと、さっきよりも若干くぐもった音をたててコーラが落ちてきた。
「ジンジャエール…」
「はあ!?いらねえの?」
 取り出したコーラを、藤代に手渡そうとして途中でとめる。
「いや、いる!いるいる!」
 慌てて伸ばしてきた手から逃げようと思ったその瞬間、コンマ1秒早かった藤代の指先が、ペットボトルを掴んでいた手に微かに触れた。
「…っ!」
 電流のようだった。冷たいものを握っていたせいで冷たくなった手に、ポケットに突っ込んでいたせいで温かくなった藤代の手が触れる。ほんのわずか、ほんの一瞬。思わず、ぱっと手を離した。ペットボトルが、コンクリートの上に落下する。まだ空けていないプラスチックの容器の内部で、茶色の泡がたつ。藤代が、ぎょっとした顔をする。
 そんな光景をまるで他人事のように見ながら、加速する心拍数をどうしていいかわからなくなった。
 ほんの一瞬。
「ちょっ、何やってんすか先輩!…先輩?せんぱーい?」
「あっ、あ、ごめん」
 慌てて首をふった。藤代が覗き込んでくる。だめだ、と思った。一旦意識してしまったら、なかったことになんてできない。何もかも、過剰に反応してしまう。
 ぐっと手のひらを握り締めてから、とってつけたように早口で言った。
「俺、次、移動教室だったわ、じゃあな、また後で!」
「うん?……、あっ、先輩!おつり!」
 藤代が背後で何かを言っていたけれど、気にする余裕なんてない。手の中で、半分になった爽健美茶がたぷたぷと揺れている。走った。


 ああもう、馬鹿だ俺。どう考えたっておかしいだろ、どう考えたって!


「先輩、おつりっていってんのに、逃げちゃうんだもん」
 少し上から落ちてきたお金を、開いた手のひらで受け止める。10円玉が、ちゃりんちゃりんと互いに当たって音をたてた。
 部室には、もう2人のほかには誰もいなかった。
 これなら早めにあがれば良かったと後悔したのは、部室のドアを開けて藤代を見つけたとき。何のために夕食時間ギリギリまで練習をしていたのかといえば、藤代を避けるためだったのだ。それがまさしく無意味だったことに気づいて、つきたくもないため息をついた。
「部屋に置いとけよ、こんなん」
 別にまってなくてもいいのに、というニュアンスで言った言葉は、妙に刺々しい響きになった。手のひらの中の10円玉を、少しだけ迷った挙句そのままジャージのポケットに突っ込んだ。ポケットの中にはいつのものだかわからない紙屑が入っていて、捨てなきゃなあ、とぼんやりと思う。
 そのまま部室の出口に行きかけて、なぜだかさっきからひどくおとなしい藤代をちらりと見やる。蛍光灯が切れかけているらしく、2度3度、パチパチと点滅するのがわかった。
 なんなんだよ、と思う。
 俺が気持ち悪いっていうのなら、はっきりそう言って欲しい。疑問があるなら、早く聞いて欲しい。言い訳なんて、もう腐るくらい準備してある。
 小さくため息をついて、ベンチに座る藤代の方に足を向けた。
「ほら、帰るぞ」
「着替えは?」
「帰ったらこのまま風呂はいるから、後でいい」
 藤代の正面で立ち止まって、呆れた体で腕を組んだ。


  「先輩、手」
 藤代が、彼に似合わない小さな、ささやくような声で言った。続きが聞き取れなくて、思わず眉を寄せる。
「は?」


「手、触らせて」



☆ ☆ ☆



 よく「人が凍り付く」みたいな表現があるけど、多分こういうことを言うんだろうな。俺の声を聞くために少しだけ前屈みになった不自然な体勢のまま、固まっている先輩を眺めながら、のんきなことを思う。
「沈黙は、いいよ、ってこと?」
 目の前で手を振って、おーい、と問いかけると、先輩はようやく呪縛からとけたみたいに目を見開いた。
「いいってことだね?」
 強引に確認して、先輩の返事なんてお構いなしに手を伸ばした。考えなしに触れた先輩の手が、まるで氷水みたいに冷たくて一瞬びくりとする。部室にしばらくいたお陰ですっかり暖かくなっていた自分の手のひらを、もう一度こわごわと冷たい手に重ねる。じわり、と冷たい温度が伝わってくるのが、なんだかくすぐったい。
「ばっ、ばばばばばかか!!!!何やってんの!?意味わかんねーよ!」
「うん、俺もです」
 ようやく我に帰ったらしい先輩が必死に抵抗するのを、手のひらの力で押しとどめる。


 こんなこと言ったら、変に思うかな?
 でも、あの時から、先輩が俺の寝顔を見ていた時から、ずっとこの手を握りたかったんだ。ねえ、おかしいかな?もっと先輩に触れたい、って、そう思うの。
「先輩は、やだ?本当に嫌ならすぐ離してあげる」
 別に、嫌がらせをするつもりはなかった。だから嫌だって言われたらすぐに離してあげるつもりで、暴れる先輩にそっと尋ねた。俺の手の温かさと先輩の手の冷たさがまざりあって、だんだんとぬるくなった温度を、けれど手放しにくいなと思いながら。ぬるま湯に浸かった時、外に出ると寒いからなかなか出られないな、と思うのときっと同じような感覚だ。
 手放したくないな、って。
 先輩が、一瞬唖然としたような顔で俺を見た。
「嫌にきまっ・・・っ・・・」
 スピーカーのボリュームを一気に絞ったみたいに、先輩の声が小さくなる。俺はベンチに座ったまま、うつむいた先輩の顔をのぞき込んだ。先輩は逃げるようにさらに頭を深く垂れたけど、そんなん、意味ないよ。だって俺、今先輩のこと見上げてるんだもん。
「ねえ、どっち?」
 半分笑いながらそう言ったのは、別に先輩は嫌がってるわけじゃない、と確信したからだ。直感で。
「どっち?」
 もう一度聞くと、先輩はうーとかあーとか言葉にならない唸り声を上げたあと、観念したようにゆるゆると首を横に振った。
「嫌じゃないってこと?」
 今度は先輩の首が縦に振られる。
 先輩、幼稚園児じゃあないんだから。言葉で言おうよ。呆れ半分でそう思って、だけどさっきから僅かに震えている先輩の手を、強く握りしめた。



☆ ☆ ☆



 死ぬかもしれない、と思った。
 心臓がはち切れるみたいな、そういうグロイ死に方で。


   藤代に掴まれたままの手のひらに、体中の神経がぎゅっと凝縮するように集まっているみたいだった。全身のうちで、そこにしか感覚がない。どうしよう、もうどうしよう、よくわかんないけど、頭の中がめちゃくちゃで、言葉もうまく出てこない。
 なんなんだよ、この状況。
 泣き出したいのか、嬉しいのか、悔しいのか、よくわかんなくて、どういう表情したらいいのかもわかんなくて、自分の胸元を見るみたいに深く頭を垂れた。
「先輩、ねえ、顔あげて?」
「・・・ムリ」
 違う、と思った。わけわかんないけど、泣き出したいことは確かなんだ。
 お願いだから、気まぐれか何かだったら、もうやめて欲しい。俺がどんな気持ちかなんて、お前はわかんねえんだろうけど。
 せめて、さっきから震える手をどうしようもなくて、必死に押しとどめている事が、どうか、どうかばれていませんように。
「・・・っ!」
 思わず飛び上がりそうになった。
 何の前触れもなく誰かの手が、めいっぱい俯けていた頬に触れて。誰かの手、なんて言ったって、それは一人しかいないのだけれど。
 生暖かい手の温度が、冷たい頬に気持ち良かった。その手に促されるままに、今度は素直に視線をあげた。
「やっと目があった」
 藤代が、ひどく嬉しそうに笑う。俺は相変わらずどうしたらいいのかわからなくて、馬鹿みたいに呆然とした顔で藤代を見た。
「ありがとう、先輩、俺、先輩の手触りたかったんすよ」
 そのままいつもみたいにニッて笑われて、あのさ、それに俺は一体どういう反応すればいいの?
 行きましょう、とまるで何事もなかったかのように言って藤代が立ち上がった。するり、とごく自然に、藤代の手から俺の手が滑り落ちる。ごく自然に。
「ばっっっかじゃねえっ!?!?」
 壊れていた回線が復帰したみたいに、頭がカーッと熱くなった。  涼しい顔で部室のドアをくぐる背中を、けれど慌てて追いかける。


 ドアの横にある電気のスイッチに手を伸ばした時、ふと、触れられていた右手を思い出して、そっと大事にポケットにしまった。
 


( Happy 28th Birthday!!! 2012.1.22)
2011.10.8/2011.10.21にブログで書いたものを加筆修正。