レインボーブリッジを渡り、お台場を背後に置き去りにする。そこに来てようやく、三上は意地だけで強ばらせていた肩の力をゆるゆると抜いた。
それでも、首都高を走っているうちは良かったのだ。流れて行く景色を見ているだけで気がまぎれるし、ぼうっとしていては分岐点をやり過ごしてしまうので、運転にも気を遣わなければならなかったから。
家を出発してから30分。まるで貝になった同乗者が黙ったままだって、そんなのは全然気にならなかった。
なんせ、怒っていたのはこっちの方なのだから。
そんな気持ちが、レインボーブリッジを過ぎたころから、まるでスイッチが切り替わったみたいに急に弱気になった。自分でも分かった。その原因についても、おぼろげながら。
道路は徐々に市街地を抜け、目に映る景色ががらりと変わる。さっきまでこちらを見下ろしていたビル群は鳴りを潜め、道路の付属物の他に見えるのは空や田園風景ばかりだ。いつもこの辺りまで来ると、近づいてくる、と実感する。
成田が、近づいてくる。
永遠に続くように見える道の先をながめながら、そして少しだけそれを望みながら、三上はそっと隣をうかがった。助手席の藤代が、カーラジオに手を伸ばす。どうやら、寝ていたわけではないらしい。
「…何か話せよ」
しばらくぶりに発した声は、狭い車内の中で静かに反響した。藤代が、ラジオのボタンに触れかけていた手をひっこめる。わずかな逡巡の後、藤代がこちらを伺うようにおそるおそる口を開いた。
「先輩、怒ってるんじゃなかったの」
「怒ってる」
三上は半分意地が抜けきらないままで、ぶっきらぼうに返した。
「朝から口聞いてくんなかったし」
「うん、…でも、俺も大人だし」
藤代が可笑しそうに声をこもらせて笑った。その笑い声に、馬鹿にされている気がして、「なんだよ」と不機嫌になる。藤代が「いえ」と言って肩をすくめる。
ばれている、という自覚はある。
結局耐えきれずに意地を手放した、自分の気持ちが。さっきレインボーブリッジを渡り終えた時、数時間後にここへ戻ってくるはずの自分を、妙にリアルに想像してしまった。ゲートに消えていく藤代の背中を無言で見送って、飛び立って行くいくつもの飛行機を車のフロントガラス越しに見送りながら、来た道をなぞるように戻っていく。一人で。きっとレインボーブリッジを渡ったあたりで、猛烈な後悔が襲ってくるのだ。なんで、さっき、くだらない意地を張って喧嘩したまま別れてしまったのだろう、と。この先少なくとも半年くらいの間。
「そうですね、先輩ももう三十路だし」
「お前も同じようなもんだろ、大してかわんねーよ」
「昔はその1歳が大してかわったんすけどねー」
藤代がしみじみと言った。そう言いながら笑う顔は昔から変わっていないのに、と思う。俺達が出会った中学生のころから。だけど、まだ中学生だったころ、藤代がこんな事を言うようになるなんてこと、想像すらできなかった。そういう風に考えれば、俺たちは確かに大人になったんだと思う。中身は、あの頃から少しも成長していない気がするのに。
「先輩、結婚しないんですか」
唐突に発せられた藤代の問いに、ハンドルを握っていた手が、小さくぶれる。とっさに空咳でごまかしてから,空気を余分に吸い込んだ。
「なんだよ、突然」
「別にー。気になっただけ」
あ、あと少しだね。「成田空港」という表示を見つけて、藤代が指でさした。
「…するよ」
聞き取れないくらいの小声で返したその言葉を、けれど藤代はきちんと捕まえていたらしい。
「そっかー」
自分で聞いておきながら、興味がなさそうに相槌を打った。三上は、徐々に迫ってくる交通標識をじっと見つめながら、心の中でもう一度言い直した。
ーーーするよ、お前が結婚したら。
最近、思っていることがある。俺たちの関係に、名前がつく事はあるのだろうか。
藤代がイタリアに生活の本拠を移してから、6年がたつ。年に数回日本に帰ってきては三上の家に泊まっていき、その度こうやって三上が空港まで送っていく。もう、何度同じことを繰り返してきたか知れない。そして、成田から人1人分軽くなった車で帰路につく度、もうこんな関係はやめようと、まるで習慣のように心に決めるのだ。
だけど、本当に、今度こそ、もう終わりにしたいと思っていた。
年を重ねるごとにじわじわと積み重なってきた喪失感が、そろそろ限界を迎えている。藤代を送り出す度、次に自分の元へ戻ってくる保証など何もないのだ。
空港に着くと、いつものように買い物をして、いつものようにレストランで小腹を満たした。そして出発のギリギリまで、デッキで次々に飛び立つ飛行機をぼんやりと眺める。いつものように。
すでに薄暗くなりかけた景色の中で、飛行機の窓から漏れる光だけが、妙に煌々と輝いている。あと数時間後には、あのどれかひとつの中に、藤代がいるのだ。
「先輩、早く結婚してくださいね」
「お前がしろよ」
「無理です、俺先輩が結婚しないと諦められないから」
「はァ?」
藤代が、飛行機から目を離してこっちを振り向く。
なぜだか、こちらを見つめてくるその目を初めて見た気がして、どきりとした。
「俺、こう見えて実は結構小心者なんすよ」
「知ってる」
ぎこちなく頷くと、藤代は満足そうに笑った。
「だから、俺からは言わないです」
今朝の喧嘩の原因はなんだったっけ、なんて、今更どうでも良いことが不意に頭に浮かんだ。お前って好き放題やるくせに、結局全部俺に押しつけるんだよ、って、そんな事怒鳴った気がする。
藤代の手が、頬に触れてくる。
体温の低いその手が肌に触れる度、心地良いと思っていた。
「ねえ、先輩、俺が先輩置いてゲートに入るの、どれだけ大変かって、思ったことある?」
口の中に溜まった唾をごくりと飲み込んだタイミングで、飛行機がひとつ、エンジン音を響かせて頭上を通り過ぎて行った。
Fin.
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