蝉の声
#30 四葉のクローバーに籠めた呪い
「この上?」
「あ〜、もう少し右。…そっとしろよ、そっと」
卵を扱うような慎重さで声を潜めると、同じような神妙さで藤代がうなずき返した。
右足に重心を移し、もう一度「ここ?」と振り返った藤代にあと少し右、と繰り返す。微かに動かされたその右足の下で、踏みつけられた樹皮が三上の目前をバラバラと落下していった。何ともないそんな事に無駄な同情を覚えて、目の前の幹に手のひらを這わせると、三上は僅かに身を乗り出してその軌跡を目で追った。
それは、じりじりと身体を焼き尽くすような直射日光が降り注ぐ、ある夏の一日だった。
太陽は今、真上にある。
時折吹く風は、木漏れ日を揺らして地面に写す影の模様を変えたけれど、それだけだった。
夏の風は涼しさを運ばない。
「あっちぃ…」
無意識に呟いた三上の頭上で、藤代が歓喜の声をあげた。
「…採った!」
蝉の鳴き声と羽をがむしゃらに動かす悲痛な音がその声に重なる。
「まじかよ、お前に採られるなんてアホな蝉だな」
多少の失望感を伴いながら、三上はひとつ上の枝の上から見下ろしてくる藤代と目を合わせて笑った。
「あ、酷いッス!先輩なんて逃げられまくりなくせに!」
藤代はそういうとさっと体を浮かせ三上と同じ目線まで降りてくると、まるで見せびらかすように虫取り網の先っぽをすぼめて持った手を三上に向けた。一匹の蝉が、まるで狂ったように三上の目前で足掻いている。
「…うるせえ」
なんとなくいたたまれなくなって、三上はふっとそれから視線を外すと慎重にその場に腰を下ろした。投げ出した足は、宙に舞う。
木に登ったのなんて、一体何年ぶりのことだろう。―――昔はよく登った。
小学校で一番大きな栗の木を、休み時間がくる度まるで我が物顔でに陣取っていたものだった。高いところへ行けば行くほど、レアで立派な虫を採れば採るほど尊敬の目をむけられ、それだけがステータスだったあの頃。
あの頃は良かった、とは言わない。いや、言いたくはない。
ただ、こうやって触れる素肌の下に懐かしい樹皮の感触が、静かに問い掛けるのだ。果たして今の自分は、あの頃の自分が憧れていたような姿に近づけている――――?のか、と。
木の下からなだらかな斜面を描いて続いているアスファルトの道。その頂上に見えたのは、陽炎だった。
「俺、蝉採ったのって初めて」
熱心に蝉を観察していた藤代が不意に感極まったような声を発して、三上は思考の渦の中から我に帰る。
「…は?虫捕りしたことねえの?」
三上は飽きれ顔で藤代を見上げた。ジェネレーションギャップというやつか?三上はどこか面白くない気分で問い返す。
「クワガタとかならしたけど、蝉はない。1週間で死ぬんだから採るんじゃない、ってばあちゃんに言われててさ〜。ばあちゃんが怖いんだ、これが鬼ばばみたいでさ!」
「へえ…、虫捕りって、兄貴と?」
「ううん、それはない。…昔、兄ちゃんが飼ってたカブトムシ間違えて逃がしちゃって、半殺しの目に合ったことならあるけど」
「半殺し…」
「うん、探してこいって殴られて、探しに行ったんだけど結局みつからなくて…、それで木から突き落とされてさあ、何針も縫った」
ははは、と朗らかに笑う藤代の、けれどその目はどう見たって笑っていなくて、三上は眉をひそめた。
「お前…、兄貴と仲悪いの?」
「……」
一瞬の沈黙の後、バキッという蝉の鳴き声を掻き消す程の音を立てて、藤代が傍らの木の枝を力任せに叩ききった。三上はその音の大きさに、木の幹に体重を預けた身体を反射的に強張らせる。
「…嫌い。この世で一番。あいつの持つもの全部、ぶっ壊してやりたいと思ってる」
藤代が、どこか遠い一点を見つめたまま、まるで決意表明のようなその言葉を呟く。
蝉の鳴き声が、一旦口を閉ざしたその無言の間を埋めるように鳴り響いた。
三上は無意識にごくり、と唾を飲みこむ。
「だからもし、先輩があいつに憧れてるとか言ったら、俺は許さないから」
「……」
握り締められた藤代のその手の中で、蝉が断末魔の悲鳴をあげるのを三上はただぼんやりと眺めていた。
蝉の声、残響が耳の奥にこびりつく、夏―――。
Fin.
****
藤代兄弟の仲が悪かったらいいと思いませんか。(そして夏、といったら蝉しかないと思うのです)