(※殴ったりしてます。激しくはないのですが、ご参考までに)
「俺、あしたここ、出てくから」
開けるなり飛び込んできた部屋の風景と、その言葉に。ドアに手をかけたまま、凍りついた。
貴方に届くとはかぎらないこと
大丈夫、この人が今この瞬間目の前から消えても、俺は死ぬことはないだろう。
笑っちゃうけど。その時真っ先に頭に浮かんだのは、そんなことだった。
「俺、あしたここ、出てくから」
押し黙ったままの藤代の反応を確かめるように、妙に喝舌の良い発音で三上が繰り返した。
「…聞こえてる」
積み重なったダンボール箱の向こうで、三上が微かに身じろぎをした。藤代はもう一度、聞こえてる、と小さく繰り返した。
何かを言いたかったわけじゃない、それしか言えなかったのだ。頭の中がからっぽだった。今しがた考えていたことやら何やらが、三上の部屋のドアを開けたのを契機にぱーっとどこかに飛んでいってしまったようだった。大丈夫、大丈夫、俺は大丈夫。バグったコンピューターみたいに、同じ言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
それで、今、この人はなんて言った?
なんとか救われていた。
今三上が言った言葉を、考える余裕がない頭に。
「藤代…ごめん」
か細く聞こえてきたその言葉に、思わず肩をぴくりとさせた。
「……」
一瞬だけ、怒りで正気に戻った。ふざけるな!叫びそうになる衝動を懸命にこらえて、薄暗い中にぼんやりと佇んでいるその人を睨みつけた。
三上は藤代の視線から逃げるようにして屈みこむと、手近のダンボールを持ち上げた。何か金属製のものでも入っているのか、三上が歩くとカラカラと微かな音がした。藤代は、三上がそのままこちらにやってくるのをまるで遠くから見ているような気持ちで眺めていた。
「…藤代」
やがてすぐ側まで来た三上に、諭すような声で名を呼ばれる。
「……」
無言で端によけた。三上はただちらりと藤代に目をくべると、何も言わずにドアに手をかけた。開ける、そして、出て行く。
ガチャン、というドアの閉まる音で、藤代は我に返った。薄暗い部屋には、ダンボールと、そして―――。
あの人、今、なんて言った?
あ、し、た、こ、こ、で、て、く、か、ら
「…!」
瞬間、死滅していた脳細胞がいっきに生き返ったように動きだして、藤代はぎょっとした。部屋に積み重ねられたダンボールを見て、そして、思考が文字になるよりも早く、身を翻した。
「センパイッ!」
乱暴に押し開けたドアの向こう、廊下には三上の姿はなかった。焦って駆け出そうとした時、ガチャリ、という音が響いて、隣の部屋のドアが開いた。
その音に恐る恐る顔を向ける、と。
「―――おう」
ドアの隙間から顔を出した三上が、したり顔でにや、と笑った。
「そこを出て、隣の部屋に住むことになった。ほら、山田が家の都合で実家通いになっただろ?」
「……」
安堵と怒りとが同時に襲ってきて、感情の波に押しつぶされて泣きそうになった。けれどその場にへたりこみそうになるのをギリギリで堪えて、腹の底から声を絞りだした。
「…ふざけんなよ」
三上の表情から、すっと笑いが消える。
あんたなんか、本当にどっかへ行ってしまえばいい。許せる冗談と、許せない冗談がある。今度は安堵を飲み込んだ怒りが攻勢を握って、頭の中といわず、全身を馬鹿みたいに荒れ狂っている。
藤代は三上を冷たく睨んでから、くるりと背を向けた。
「藤代っ!」
慌てた三上の声が追ってくる。
「さわんな」
怒りに任せて追ってきた手を振り解いた。
「悪い、今のは俺が悪かった。謝るから!な、」
「……」
「なあ、引越し手伝ってくれねえの?な〜あ」
「…うるさい」
「せーいーじーくん」
「くんな!」
「悪かったって、なあ、わかった、何でもするから」
「…なんでも?」
「おう、なんでも」
その言葉に足を止めて突然振り返ったら、三上がビクリとして立ち止まった。あからさまに「しまった」という顔をする三上を、藤代は見逃さなかった。「先輩」、と名前を呼んで俯いていた視線をあげさせる。そして、有無を言わせぬ口調で言った。
「…一発、殴らせてください」
じゃないと許さない。抑揚のない声でそう付け足すと、三上が体を強張らせるのがわかった。自業自得だ。妙に冷ややかな気分で思った。
しばらくの間。
やがて諦めたようにして、三上が視線を外した。
「…わかった」
だけど、この人は、何もわかってない。じゃあ、と言って、半ば引きずるようにして三上を部屋に入れた。
「先輩、ひとつだけ約束して」
積まれたダンボールにもたれるようにして三上を座らせて、その顔を覗きこんだ。三上が力なく頷く。
「俺を試すような真似、しないでください」
三上が、ぎょっとしたように目を開いた。
やっぱり、この人は、俺が気づいてないと思ってた。言っていい冗談と、言っちゃいけない冗談があること、わらない人じゃない。なんで、この人は。普段は馬鹿みたいに人の心を読むのに、俺の気持ちがわからないとか、どうかしてる。
「藤代、ごめん」
観念したように呟いた三上を見て、藤代は小さく息を吐いた。
「もういいですよ」
でも、それで今日の分をチャラに出来るほど、俺オトナじゃないんで。俺がさっき、どんな思いだったかなんて、そんなのあんたわかんないだろ?
「…歯、食いしばってください」
手加減をするつもりはなかった。目を瞑る三上をしばらく見つめて、ゆっくりと手を上げる。
「…っ!」
骨と骨がぶつかるような、いやな音がした。三上の体が左に倒れるのを、慌てて手で支える。気が遠くなりそうなほどに、右手がじんじんする。
「先輩、大丈夫ですか!?」
「……、おまえが、いう、な」
苦しそうに顔をゆがめながら、三上が苦笑する。
「謝らないですよ」
「謝られたらなさけな、」
「って、先輩、口ん中切れてる!歯食いしばれ、っていったじゃないっすか」
慌てる藤代に、三上は拗ねたように呟いてそっぽを向いた。
「だって、おまえ遅いんだもん」
ひどくいたたまれなくなって、ごまかすように三上を抱きしめた。ごめん、先輩ごめん。心の中で呟きながら、三上の腫れた唇を舌で舐めた。三上が小さく呻く。右手の拳は、もうすでに麻痺していた。だめだ、と思う。痛みを覚えておかなければ。強張った三上の背を、なだめるように優しく撫でた。舌を割って、三上の唇に自分の唇を重ねる。舌の先に、血の味がする。ゆっくりと、刻み付けるように口内を弄った。
舌先の味覚が麻痺したころに唇を離した。そうして三上の目許に光る涙を舐めてから、腫れた右頬を優しく撫でてやった。
「処置、しなきゃね」
そう言って立ち上がろうとした藤代の袖を握って、ひどく弱弱しい声で三上が言った。
「いい、」
「いいって…、先輩、わかってる?」
声なく頷いた三上を、呆れたように見下ろした。
「俺、このままヤッちゃうよ?」
「いい、から、…いくな」
このまま押し倒してしまいたい衝動を耐えながら、
「先輩、わかってる?俺、優しくなんてできないよ?」
もしかしたらもっと、いつもより酷いことをしちゃうかもしれない、と念を押すように言った。
「いいつってんだろ」
焦れるように腕を引かれ、藤代は今度こそ抗わずに身を任せた。
不安定に重ねてあったダンボールの山に体が当たって、鈍い音を立てて崩壊した。それはあたかも、自制心が崩れ落ちる音のようだった。
そうして全てを許した三上の体を抱き寄せながら、藤代はようやく安堵を覚えた。
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