そうして結局この場所にきてしまう自分に、投げ捨ててしまいたいような嫌悪感をかんじる。埃とカビの混じった陰鬱な空気が支配するこの場所で、無条件にそれに安堵してしまう自分を、
消してしまいたい、と思う。
#35:嫌気がさすのに離れたくない
父親に会ったことは一度もない。物心ついた時、もうすでにあいつはいなかった。だから自分に父親がいるのだという実感などこれっぽっちもないし、別に欲しいと思ったこともない。ただ、あの広すぎる家と母親名義の口座に毎月送られてくる莫大な金が、父親という人間の存在を嫌が上にも主張していた。父親というものを、夫というものを、否定しながらもその金に頼って生きている俺たち母子は滑稽以外の何者でもないのだろうと思っていたし、そして今でも思っている。
不自然なほどに広すぎるあの家は、ガキひとりでいるには押しつぶされそうな程の虚無と悪意が充満していて、安らぎというものとは程遠かった。けれどそんな中でひとつだけ、一ヶ所だけ無条件で安堵できる場所があって。その場所はほとんどが不必要なほどに広いあの家の部屋部屋の中で唯一狭くつくられており、そしてそれは皮肉なことに、
―――――父親の書斎、だった。
やっとあの家を抜け出せたと思ったはずが、こうやってまた同じような場所を無意識に探してしまう自分。自己嫌悪と安堵の相克に、三上は壁に預けた背中をずるりと這わせた。
中高生には広すぎる武蔵森自慢の図書館の一番奥は、誰も足を踏み入れない奥地と化していた。埃とカビの匂いが交じり合って濃縮されたようなその空気に、たいがいの人間が参ってしまう。だから自然と誰も足を踏み入れず(そして事実踏み入れる理由がないのだ。そんな年代物の書籍を誰も必要としてはいない)、それがかえって埃っぽさにるながる、という悪循環を生んでいた。確かに誰もこない場所に行きたいとなったら好都合の場所だった。だったの、だけれど。わざわざこれほどまでにあの書斎に似通った場所を選ぶ必要はなかったわけで。ちょっと考えてみれば立ち入り禁止の屋上や体育館の舞台裏、空き教室、ひとりになれる場所はどこだってあるのだ。
それなのに足が向いてしまうのはこの場所で。
(ああ、もう、まじで死ね…)
憎しみをこめてガリ、と埃にまみれた床板を爪でひっかく。
その時、不意に静寂をやんわりと破るようにゆっくりと床をふむ足音が耳に聞こえて、三上は床を睨んでいた目線を上げた。
「やっぱりここにいた」
「…渋沢」
なんでここに?書架の間からひょっこりと顔を出した、突然の珍客に全身で嫌悪感を露にしたというのに、渋沢はそんなことなど意に介せずとばかりに涼しい顔で側まで近寄ってくると、無造作に腰をおろした。
「なに、おまえ…うざいんだけど」
無償にイライラが募って、覗き込まれた視線を睨みつけた。思わず当り散らしてしまいそうな自分を抑えようとこの場所に来たはずが、これじゃあまったく意味をなさなくて、余計に不満が累積する。
「用がないならどっかいけ」
何のつもりか無言でいる渋沢に、たまりかねて威嚇の意を込めて低い声で重ねた。それから出来うる限りの憎しみを込めて睨みつける。少し戸惑うような渋沢と目があって、そして次の瞬間その目の中にある種の同情のようなものを認めてしまって、とたん頭の中がまっしろになる。
「何、なぐさめてくれんの?」
ぐいと渋沢の胸倉を掴んでひきよせて、意識的に見下したような下卑た笑いをしてみせる。
(お前に何がわかる…、わかるわけねえんだ)
立ち込めるカビ臭さを父親の匂いと信じて、それを好きだといって媚びている人間の気持ちなんか、才能にも環境にも恵まれている人間にわかるわけがない。
「…お前さあ、俺なんかに構うのやめろよ」
(くだらねえ嫉妬だ。ばかばかしい)
一瞬頭に上った血にうんざりして、三上は掴んだ渋沢の襟をスルリと手放した。渋沢の体重が背後の本棚に移動して、ガタン、と小さく揺れる。
「三上しか構ってくれる人がいないんだ」
消え入るようなトーンでぼそりと呟かれた一言に、三上は思わず目の前にある薄い色素の髪の毛を凝視した。
「……は?」
思いっきり否定するような口調で畳み掛けると、俯いていた顔がすっと持ち上がる。訝しげな三上の視線が、渋沢の表情をとらえる。
けれど、
「なんでもない」
と打って変わって満面の笑みで返されて、その変化に三上は柄にもなく狼狽した。
「…は?は?はあ?」
「だからなんでもないって。じゃあ、俺いくから」
そう言って慌てて立ち上がる渋沢を呆然と目で追っていた三上は、渋沢が背をむけて立ち去りかけた時にはっと我にかえった。
「ちょ、ちょ、たんま!」
「…!」
けれど確実に動きを止めようとして、座った姿勢のまま慌てて渋沢の足に掴みかかったのがいけなかった。そんな攻撃が来るなどと予想していなかった渋沢は、軸足だった右足に無防備の不意打ちをくらってバランスを崩し、そのまま尻餅をつくようにうしろに倒れこんでしまった。
「いっ…、いってえよテメエ!」
「あ、すまん」
元凶が誰かといえばそれは今渋沢の下敷きになっている三上なのだが、三上の剣幕に渋沢は条件反射で飛びのいた。
「…で、なんのようなわけ?」
ゴロンと床に仰向けになったままの姿勢を正そうともせず、三上は渋沢を見上げた。背中の堅い板の感触が、夏の日に涼を求めて這いつくばった書斎の床を思い出させた。
三上の問いに、渋沢は困った様に頭をかいた。
「…で、さっきなんて言った?」
渋沢の反応にささやかな優越感を感じて、三上は目にかかる自分の髪の毛を払いのけた。
「なにも」
惚けた顔で正座をしていた足を崩す渋沢を見ながら、三上は小さく笑った。
「…おまえ、俺のこと好きなの?」
体勢をととのえていた渋沢の身体が、一瞬ビクリと硬直するのがわかった。
「俺はお前の事嫌いだよ」
何がおかしいのか自分でもわからなかったけれど、笑いが喉の奥から溢れ出してくるようにとまらなかった。
嫌いだよ、お前なんか。
何度その言葉を、あの一人ぼっちの書斎で呟いただろうか。けれど一度だって返事は返ってこなかったし、大理石の床はただ無機質で冷たかった。
自分を見下ろす渋沢の表情に影がさしたのを見て、わかりやすい奴、と笑ってやった。
「嫌いはなんとかの裏がえし、ってな」
独り言のように呟いて、横たえていた右手を上に伸ばした。そして蛍光灯の光にすけて金色に見える、渋沢の髪の毛にそっと触れる。
「俺のこと嫌いって、いえよ」
自分を求める人間なんて、たいした人間じゃない。父親の不在で、どこかが狂ってしまった母親は、異常な程に息子を溺愛した。小学校の時に流された根も葉もない噂の出所は、自分を好きだといっていた女子だった。そのせいで孤立した三上を、親身になって口を出してきた女教師は身体が目的の、ただの変態ロリコンだった。
振り返ってみればみんなクズだったと、そう思う。
「俺を好きだとかいって、失望させんじゃねえよ」
不意に泣き出しそうになって、それをごまかすためにそっと触れていただけの髪の毛を、指にからめて握り締めた。渋沢が小さくうめいたけれど、それをきれいにシカトする。
武蔵森サッカー部という実力社会の中で、弱冠1年の身で一軍入りしたエリートが自分ごときを振り返るなどあってはならないことだった。少なくとも、三上の中では。
嫌悪と憧れは、常に表裏一体の関係であるべきなのだ。
乱暴に掴んだ髪の毛を、ぐいっと力まかせに引き寄せる。渋沢の抗議の声を、自分の乾いた唇をそこに押し付けて遮った。言葉を発しようとしたせいで半開きだったその唇に、強引に舌を割り込ませる。突然の出来事に硬直した舌を絡めとって、内側の歯茎をソロリと舐めた。渋沢が小さく身震いして、その振動に三上はさっと唇を遠ざけた。
「三上…」
渋沢が、整えきれていない息を吐き出しながら、困惑した表情で見返す。けれどその表情は、どこか高揚していた。三上は乾いた唇をべろりと一度見せ付けるように舐めて見せて、それから面倒くさそうに上半身を起こすと、本棚にだらりと背を預けた。
「三上、俺は…」
「んな困った顔すんなって、別に難しいこと言ってねえし」
三上はわざとちゃかすようなトーンで言って渋沢の肩をトンと叩くと、
「俺は三上の事嫌いじゃないから、嫌いとは言えない」
という生真面目な返事が返ってきて、思わずはあ、と息を吐き出して、肩をすくめてみせた。
「…わかったよ。…でもちょっと、問題が」
「…問題?」
真面目に聞き返してきた渋沢に、三上は柄にない満面の笑みを浮かべた。
「勃っちゃった」
いつから性というものに目覚めたのかとか、そんなことはもう忘れてしまった。けれどあの書斎の片隅に何をするでもなくぼんやりと座り込み、三上にとって意味をなさないただの文字列でしかない本の背表紙をながめている内に、何時の間にか床をなでていた手が性器をにぎっているのはいつものことだった。高ぶるままに性器を扱き、揉み、擦り、誰もいない家のなかで、それでも声を必死でかみ殺した。そうして射精した、その後の虚無感は経験するたびにもう二度と味わいたくない、とそう思った。
三上にとって自慰は性欲処理やましてや快感などでもない、自分の中に溜まった鬱蒼とした気持ちを吐き出す、ひどく義務的なものだった。
けれど習慣というのは恐ろしいもので。あの書斎に充満する独特な匂いと、同じ部類の匂いが漂うこの空間にぼんやりと座り込んでいると、自然と身体が反応した。そして勃起した己を放置しておくわけにもいかず、射精をするためだけに自慰をくりかえす。
それがこの場所から離れられない理由かと言えば、確かにそうかもしれない。
「っつ……!」
生ぬるい、ざらりとした感触が遠慮がちに先端を撫でて、その感覚に三上は思わずブルリと身体を震わせた。指の感触とは違う、官能を導くようなその快感に三上は小さな恐怖をかんじて、己の下腹部に這いつくばっている渋沢の頭に手をおいた。勃ちあがった性器の根元に手をそえ、先端を口に含んだ渋沢がわずかに視線をあげて、それに何でもない、と首をふって答えた。両手でぎこちない動作で扱かれ、同時に筋をなめられると、既にグロテスクに反り勃っていた性器は先端から先走りの液を漏らした。それをチュウ、とジュースでもすするように吸い込まれて、
「…うあっ……っ…!」
その快感と羞恥に、耐え切れずに声をもらした。けれど焦らすように先端を口に含むだけの行為に痺れをきらして、渋沢の頭にのせていただけだったその手でぐっと髪の毛を掴むと、乱暴に引き寄せた。うぐっ、という息が詰まるような音がくぐもって聞こえたけれど、構ってなどいられなかった。否、そうするだけの余裕などもはや残ってはいなかった。けれど、ほとんど惰性でもって申し訳程度に身体を折ると、睨んでくるその瞳に浮かんだ涙を舐めとってやる。それと同時に、さらにグッと己を押し込んだ。拒否反応のように立てられた歯にでさえ、痛さよりも快感を感じて、めちゃくちゃに己をすりつけた。自分が何をしてるのかもわからなくなって、ただ一点に到達する、ただそれだけのために行為を続けた。
「あああっ……!」
やがって絶頂に達し、何の躊躇もなく己の白濁を渋沢の口内にぶちまけた。同時に、まるで嘘のように冷めた意識が思考を取って代わる。ずるり、と半ば義務的に渋沢の口から弛緩した己を引きずり出すと、渋沢が苦しそうに咳き込んだ。それを余韻の残る頭でぼんやりと見下ろしていたら、唐突に例の虚無感が湧き上がってきて、
「ごめん」
それに巻き込まれそうになる恐怖に、思ってもいない言葉を呟いた。
「思ってもないこと言うな」
不機嫌な顔でぞんざいに言い返した渋沢に、三上はその的確さにくっくっと笑った。
「俺ってサイアクだな」
「ああ、最悪だ。死んでしまえ」
嫌悪と憧れは、常に表裏一体の関係であるべきなのだ。
だからこそこうして結局この場所にきてしまう自分に、投げ捨ててしまいたいような嫌悪感をかんじる。埃とカビの混じった陰鬱な空気が支配するこの場所で、無条件にそれに安堵してしまう自分を、消してしまいたい、とそう思う。
けれど例えば渋沢を消してしまいたい、とそう思ったら、それはどういう心の変化なのだろうかとか、今は考えたくないと思って、慣れ親しんだ匂いに身をまかせた。
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い、意味わかんねー!おいおい、お前の脳みそはどこへ向かうの!と半ば呆然としながらキーボードを打っていたよ…ううう…。でもお金持ちでお坊ちゃまな三上いいよネ〜、小学校の頃は蝶ネクタイと半ズボンだぜ!…萌え!あ、遅ればせながら渋たんおめでとうござりまする〜。