悲しいわけではない。ただ少し、どうすればいいのかが分からないだけだ。
1階の自販機で缶コーラを2つ買う。金額ぴったりの小銭を入れたのに、無意識につり銭口に手を伸ばすのは身に染み付いてしまった習い性のようなものだ。いつだったか昔、そうやって500円を手にしたことがあって、その時の喜びが心のすみっこに染み込んでしまっているようだった。あれは確かまだここに来て間もない時のことだったから、5年くらい前のことになるのだろう。もっと詳しく言えば、それは親元を離れこの寮にやってきてすぐの話だ。金の使い方がまだわからなくて、あるだけ使ってしまって常に金欠にあえいでいた頃のこと、500円は天から降ってきた恵みだった。飛び上がらんばかりに喜んだあの時の記憶は、なぜだかひどく鮮明だ。
もっとも、未だに金の使い方などわかってなんていねえんだけど。ただ(何か成長した、といえる部分があるとすれば)、他人へのたかり方が上手くなったということくらいのもんだ。
たかり方、というフレーズでまっさきに同室の渋沢の顔が頭に浮かんで、思わず苦笑いした。渋沢には本当に世話になった。いや、世話になりすぎたというべきか。申し訳なさ半分、感謝半分の複雑な気分で取り出し口からコーラを取り出した。
ともかく、思い出を手繰りだしたら、際限などありはしないのだ。自販機だけでこんなにも思い出があふれ出してくることから考えれば。
それは多分、6年間ここで暮らしたという、その分の重みなのだ。
そして、俺は明日、ここを出て行く。
廊下を蹴るスリッパの音を他人事のように聞きながら、一語一語かみ締めるように呟いた。
そして、俺は、明日、ここを、出て行く。
けれどその言葉のつながりの白々しさに、何故だかひどく悲しくなる。
たとえばそこにどんなに厚い思い出の層があったとしても、実際問題としてそれはあまり関係のないことだ。無機物にでさえ、終結は宿命的に存在する。
いや、言い換えよう。健全なものには全て、終わりが内包されているのだ。宿命的に。
炭酸飲料だという前提を無視して、缶コーラを宙に放り投げる。虚空に軌跡を描いて舞い戻った缶が再び手に触れて、その温度の低さに思わず手放してしまいたくなった。缶ジュースの温度が気持いい、と思うような季節はまだ随分先の話だ。
非常扉のノブを回す。
例えばこの感触も、そしてその扉を押し開くときの微かに胸をつく高揚も、最期のことなのだ。
いちいちそんなことを考えてしまう自分がなんだか可笑しくはあったけれど。
さび付いた音を立てて、その扉は開く。
とたん春の風が飛び込んできて、思わず目を閉じた。
「あっれー、早い…片付けもう済んだの?」
間髪いれず耳に飛び込んできた言葉に、薄く目を開ける。声がしたほうに目を向けると、言葉どうり心底意外そうな顔をした藤代が見上げていた。三上は思わず緩みそうになる頬をこらえて、なるたけ無表情を装いながら、後ろ手に扉をしめる。
「いや、まだ……つーか終わりそうにねえから」
はい、と缶コーラを手渡しながら、藤代の隣に腰を下ろす。風が色んな方向から吹いてきて、そのたびにさらわれる髪がうっとうしい。
「え、ラッキー!先輩のおごり?」
「いんや。倍にして返してね」
「うっわ、ケチ」
「ケチ言うな。つうかまじ片付け終わんねえーーー!!!」
「もっと前からやんないからですよ」
「……、なんかそれあんまお前に言われたくないっつーかなんつーか…。あ、そういやお前CDコンポいらねえ?こないだ壊れたとか言ってなかったっけ」
「え、いいの?先輩持ってくって言ってたじゃん」
「やる。せんべつー。後で部屋取りこいよ。他にも欲しいもんあったら持ってっていーし」
んー、と呟く藤代の横顔を盗み見ながら、もう一度思う。本当に、最後なんだな。もう一度思う。本当に、最後なんだ。
思い出して缶コーラのプルタブに指をかけてひっぱると、爽快な音と共に泡が少しだけ飛び出した。それを見た藤代が笑って、俺のはふってある気がするから、ちょっと待つね。と憎たらしいほどに冷静に言った。思わず目を見張るほどの防衛本能だ。
ごまかすように曖昧に笑い返して、心の中でぼんやりと思う。
片付けが終わらないことの一因は、終わらないわけではなくて、終わらせたくない、ということにあるのではないかと。荷造りし終えてしまったら本当に全てが完結してしまうように思えて、そのことがひどく(これは推測でしかないけれど)―――ひどく怖いんじゃないだろうか。証拠にあの渋沢でさえ、荷造りを終えることに躊躇している。部屋は今もめちゃくちゃだ。でもこの場合、めちゃくちゃな方がいいのかもしれない。例えるなら、1点ビハインドで迎えたロスタイムのようなものだ。終わらない限り、得点を入れるチャンスはある。まだ終わっていない。まだ、終わっちゃいない。
ただ違うのは、希望のためにではなく、しがみつくために諦めないという、どうしようもないほどに消極的なその理由。
たしかに終結は、宿命的に存在する。だけどそれを認めるには、まだあがき足りていない。なあ、そうだろう?俺はまだ足掻けるんじゃないか?
「あ、そうだ、ネクタイ返そうと思って先輩呼んだんだった」
強引に喉の奥へコーラを流し込んで、弾ける泡を舌の上で感じていると、藤代が言った。上の空だった思考をこの場所へ戻すべく、ネクタイ?と他人事のように繰り返してみる。
「うん、ネクタイ。先輩の」
「いいよ、別に。…だって俺、お前のどっかやっちゃったし」
そして心に思い浮かべる。ネクタイの裏の、少し滲んだ藤代というフェルトペンの文字をなぞった指の感触を。ダンボールに入れてガムテープで閉じた昨夜のことを。
「ええっ!?だって卒業式のときしてたじゃん、」
「あの後もみくちゃにされてどっか行っちゃったんだよ。…だからもっとけ。俺はもう使わねえし」
藤代が不意に笑い声を立てて、その唐突さに思わずぎょっとした。けれど続いた言葉に、それが単なる思い出し笑いだったことを知って無意識に胸をなでおろした。つまらない意地が、ばれた訳ではないということだ。
「ネクタイ交換してたの、ばれませんでしたね……、結局誰にも」
「いや、ばれてたよ。だからカケは俺ん勝ちだ」
「…うっそ、誰に?」
「きゃっぷてーん。何で藤代のネクタイ使ってんだ、って言われた」
「で、先輩は何て?」
「んー、部室で着替えるときに間違えてつけて、それから返しそびれて今にいたる、みたいなこと言ったっけな」
「うわ、適当すぎる…、でも先輩、誰かにばれたら返すって言ってたのに?」
藤代がこっちを振り向いて、ぎくりとして思わずそらしてしまった視線を建物のはがれ落ちた壁に固定する。そして流れた気まずさを取り繕うように、やるよ、とぶっきらぼうに呟いた。そのれに対しての応答はなく、かわりに階段について支えていた方の手のひらに不意に生暖かいものが触れ、思わずビクリと身体をふるわせる。確認する必要もなくそれは藤代の体温だった。手の甲にぎこちなく触れる藤代の手の感触は、何故だかひどく緊張を呼んだ。
たった今考えていたことを悟られてしまったのではないかと、一瞬思う。
気持ちを落ち着けるべく空気を肺に送り込んだ。
今日の自分はちょっと感傷的になりすぎているのだ。ふと気づけば見るもの全てを記憶に焼き付けようと、無駄な努力ばかりしている。決めつけるのは嫌だけれど、多分それは無駄な努力なのだ。
そして今考えていたことを、口の中で言葉にしてみる。ただ音は発さずに。
―――でも、仕方ねえじゃんか。例えばこの場所でそのことを思い出すなといった所で、それは不可抗力だ。思い返せば、あれが全ての始まりだった。藤代はなぜ、俺を求めたのだろう。そしてなぜ、俺はそれに応じたのだろう。一度きりだ。たった一度きりのことだった。
ちょっと考えてみて、けれど全然わからなかった。手がかりでさえ思い当たらない。例えば初恋のミヨちゃんの、一体どこが好きだったのかがわからないのと同じような理由で。
だけど、ひとつだけ。
過ちだったとは、決して思いたくないのだ。ミヨちゃんに対する思いが、過ちではなかったことと同じように。決して嫌ではなかった。たとえば今も、こうやって触れる藤代の体温に、心の奥底でどこか焦がれているように。
「先輩」
藤代が言う。なぜだか頭のどこかに大きな空洞があって、その中で藤代の声がぐわんぐわんと反響しながら聞こえているようだ。
「違うや、くれるんじゃなくて貸して。そして来年この場所で、返すから」
重ねられた藤代の手に力がこもって、握り締められた手のひらが小さな悲鳴をあげる。何故だか泣きそうになった。手のひらから伝わる曖昧な温度が、心のもやもやを増幅する。決してそれを振り払いたいわけではなく、ただ何かがひどくもどかしかった。
「…やるよ」
宿命によせて、終わらせたいと願っていた。
だけど同時に、俺はまだ足掻けると思う。矛盾だ。わかってる、これは矛盾だ。終わらせないことはできる。でもそれが、つけなければならない決着から逃げているようで嫌だった。引き伸ばすことはできる。でも、引き伸ばしたからといってそれは必ずいい方へ傾くのだろうか?答えは、残念ながらこれまでの経験上、イエスともノーとも言いがたい。多分それは価値観の問題だ。プロスポーツ選手にまだ活躍できる年齢で引き際あざやかに引退する人と、本当に限界でボロボロになるまで引退しない人がいるように。
この場合、藤代は後者だ。そして俺はその間でオロオロしている、中途半端な人間だ。その立場を形容するなら、それは無様でしかない。
「借りる」
「俺は来ねえよ、来年なんて」
断固として言ったはずの言葉は、口から出てみれば、春の風に消え入りそうなほどの小さな声だった。その声に発した当人が動揺しているその間に、不意に伸びてきた手が何の前触れもなく肩をつかんで、そのまま強引にさらわれる。突然のことでなされるがままの身体が、かつてないほどスムーズに藤代の腕におさまる。腕と胸の間に挟まれた耳元に心臓の音が大きく響いて、それが脳に達したときようやく我に返った。文句が出るよりも先にひどく不安定なその格好に閉口して、非難をこめて藤代を仰ぎ見る。今の体勢を簡単に言えば、膝枕から無理に上半身を押し上げたような、そんな不自然な格好だ。
だけどすぐに後悔した。藤代と視線を合わせてしまった、そのことを。このときとばかりに睨みつけてきた藤代の視線に、無条件でひやりとした汗が流れる。
「来る。あんたが俺を忘れるなんて、できるわけがない」
はなっから全ての可能性を無視した口調で、さらなる追い討ちをかけるように奴は言い切った。
…来ねえよ。
答えた言葉の力のなさが、全ての答えだった。
俺は終わらせたいんだ、こんな曖昧な、健全じゃない関係なんてそんなもの。最後のあがきに呟いてみて、けれどすぐに綺麗さっぱりゴミ箱に捨てた。
捨ててしまうと、なんだかとたんに全てがバカらしくなった。明日、俺はこの寮を出て行く。だから、なんだというのだ。よく考えてみれば、ただ住む場所が変わるというそれだけのことだ。俺は何も、感動する映画や本が読みたいという、最近の日本人の傾向を踏襲しているわけではない。それに、そんな義理もない。ついでに言うなら、俺は感動して失禁してしまうようなアクションムービーが見たい。まあつまり、それは別のはなしだということだ。
たしかに、忘れられるわけがないのだ。
だって、俺達は未だ自分の気持ちにさえ答えを出すことができないのだから。藤代を好きだって?同性に感じるべきそれ以上の想いを俺はこいつに感じているって?知らねえよ、だいいちこれまで生きてきた中で、まともな恋などしたことがないのだ。納得するための材料不足だ。性欲を感じることがイコール恋愛につながるなんて、そんなことないだろう?エロ本やAVを見て欲情はする(それはもう、暴力的なほどに)けれど、それがイコール恋愛だなんて言う人は思うに誰もいまい。たとえいたとしても、それは一般的じゃない上にちょっとやばい。いや、大分やばい。
確かに藤代に触れられると欲情する。いや、語弊がないように言っておこう、もちろんTPOによりけりだ。だけどそれに確信を持てない以上、適当な答えに寄りかかるべきではないと思う。事は慎重を期するのだ。恋愛に論理は必要ないって?馬鹿が。それだから感情にまかせて恋愛に没頭し、人は痛い目をみるのだ。
恋愛のれの字もしらない小僧が、偉そうなことを言っていると笑われそうだ。笑えばいい。俺は正論を言っている。
泣きを見るのはどっちだ?若さにかまけて好き勝手したほうが、楽にきまってる。だけど俺は真剣なのだ。言ってしまおう、俺は真剣なのだ。藤代の直球に向き合おうとするくらい、俺は真剣なのだ。でも大抵の場合、それは直球にみせかけて変化球だったりする。要するに馬鹿だから、その辺は加味するとして。
藤代の手を柔らかく払う。そして奥歯で衝動をかみ殺す。答えは出ていない。けれど俺にはまだ、やらなきゃいけないことがある。今は俺も藤代も、曖昧なままでいたいと願っている。いつも単純明快であるはずの藤代の言動に、かすかなためらいが見えるのはその証拠だ。そしてそれは、今このとき、解決しなければならない問題ではない気がする。
物事には終わりがある。けれど、それは何かの終わりと共に一様に訪れるものではなくて、物それぞれの寿命においてやってくる。
来年も今のままでいると信じてる。そして信じなければならないと、心のどこかで思っている。それでいいじゃないか、今はとりあえず。
「さーて、」
春風を肺いっぱいに吸い込んでから、立ち上がる。見慣れた景色が身体を包んで、なぜだか今はその事実にどこか安らぎを感じる。そこに感慨を求めるのはもうやめた。大きく息をすいこんで、傍らの藤代を見下ろす。そして苦笑した。
「泣くなよ、藤代」
「泣いてない」
怒ったように返ってきた藤代の言葉に肩をすくませてみせた。そしてゆっくりと思い出のイメージに背を向ける。
さて、あと一仕事。
最後に藤代の頭をぽんと叩いて、取り残してきたごちゃごちゃのあの部屋に戻るべく、階段の踊り場の床を蹴った。
そして自分に言い聞かせる。
(―――泣くなよ、俺)
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