気がつけば、緑色のピッチの真ん中で立ちすくんでいた。
困惑したのは、一瞬、今自分がどこで何をしているのかがわからなくなったからだ。けれど、次の瞬間響いた、自分の名を呼ぶ声に背中を押されるように駆け出した。僕は、着慣れた武蔵森のユニフォームを着ている。そして同じユニフォームに身を包んだ仲間は、今さっき自陣深くで取り返したボールを押し上げて、攻撃に転じている。しまった、何をぼんやりしていたんだ。走るうち、今自分たちの置かれている状況を徐々に思い出してくる。今は後半で、スコアは1対1の同点。落ち着いて周りを見ようと顔をあげて、ふと、軽い違和感を覚える。
前を行く、10番の背番号との差が一向に縮まらない。先輩、あがりすぎ―――声をかけようとして、はっとした。違和感の正体に気づいて、立ち止まる。そうだ、なんで、俺が三上先輩の背中を見ているんだ?
水滴が紙を打つわずかな音に、我に返った。
額から流れた汗が、真っ白なノートの上で滲んでいる。
(…夢、みてた?)
なぜだかひどく信じられない思いで、現実を確かめるように手のひらをぐっと握り締めた。汗ばんだ手のひらはべとりとしていて、急激に教室の暑さを藤代に思い出させた。
教壇では英語教師がケンだのマイクだのハーイだの言っていたけれど、教室の大半はそれどころではなかった。理由は明白だ。暑すぎるのだ。エアコンは各教室についていたけれど、残念ながら文字通りついていただけだった。使えなきゃついてる意味ないし。藤代は下敷きで心ばかりの風を送りながら、半ば使い古された文句を心の中で唱えた。
その時、窓の外から聞こえてくる音がわずかに変化した気がして、何気なく視線を外に向ける。空は憎たらしいほどにどこまでも真っ青で、その下のグラウンドでは、体育の授業だろうか、まばらに生徒が集合しているところだった。地面では、敷き詰められた砂が太陽の光を反射させて、時折きらっきらっと輝いている。どこの学年だろう、と気を紛らわすついでに知った顔を探しかけて、すぐにあっ、と思った。
グラウンドを、ダルそうな足取りで横断していく背中に見覚えがあった。気づいたことについての喜びと同時に、微かに焦燥感のようなものを感じたのは、先刻の夢が心の隅にひっかかっていたからかもしれない。後ろから声をかけられたのだろう、振り向いたその顔を確認して、藤代は小さく笑った。
―――やっぱり、三上先輩だ。
左手に持っていた下敷きを右手に持ち替えて、心持窓際に体をよせる。相変わらず真っ白のノートが、窓から吹く風にさらわれてパラパラとめくれた。
笛の音が、微かに聞こえてきた。
グラウンドではいつの間にかチームに分かれた生徒たちが、サッカーボールを追いかけている。藤代は、微かに眉を寄せた。ずるい。ボールを持って飛び出した青色のゼッケンを目で追いながら、もう一度思った。ずるい。僕も、サッカーやりたい。青色のゼッケンは、そのまま一直線にゴールへ向かう。いける、と思った瞬間、けれど振られた足はシュートではなく、味方へのパスで終わる。完全にタイミングを合わされたシュートが、キーパーのど真ん中に入る。
(あーあ。・・・格好つけちゃって)
シュートを打った方ではなくて、ゴール前までボールを運んだ青色のゼッケンに呆れ半分ため息をつく。サッカー部での先輩は、いつも必死なくせに。体育だって、どうせ得意なやつはこの時とばかりに活躍できるチャンスなんだから、周りなんて気にせず滅茶苦茶にしてやればいいのにさ。馬鹿だなあ。格好つけちゃって。本当は思いっきりやりたいくせに。
お、と思って思わず身を乗り出したのは、敵陣でボールを奪った三上が1人で駆け上がってきたからだ。
「……藤代!」
「…ッて!…あ、先生…」
丸めた教科書を手に持った先生が、いつの間にか藤代を呆れた顔で見下ろしていた。
「身を乗り出しすぎだ」
すみません、と笑いながら、こりずに横目で校庭をチラ見する。どうやら、あの喜びようから見るに、三上は劇的なゴールを演出したらしい。当たり前だけど。あれを外す先輩なんて、俺いやだし。暑さで怒る気力も失せたのか、そのまま教壇の方へ戻る教師を見送って、また校庭に視線を戻す。ほとんど無意識に、午後の鋭い日差しの中を駆ける体操着の背中を追った。
■
その日の放課後三上先輩を見つけたのは、夕飯後の自由時間でコンビニに買出しに行こうと自転車をひいていたときだ。
向こうから、まだジャージ姿のままで歩いてくる三上を認めて、藤代は声をかけた。
「あれっ、先輩今帰りですか?夕飯終わっちゃったよ」
いつも一番遅くまで残っている三上だけれど、こんな時間まで残っていることは珍しかった。 藤代の言葉に、三上はあからさまにがっかりと肩を落とした。
「あ〜、やっぱ?夏は日が長いから時間わかんねえんだよ…、で、おまえどこいくの?」
「先輩も行きます?コンビニに買出しです」
「金貸して」
「いいっすよ、代わりに先輩こいでください」
「はあ?俺飯くってなくてヘロヘロなんだけど」
「僕の二人乗り運転はもっとヘロヘロだけど」
へへっと胸を張ると、三上はわざとらしいため息をついた。けれどそんな態度とは裏腹に、藤代の手から乱暴に自転車のハンドルを奪うと、自然な仕草でペダルに足をかけた。
「いくぞ」
「わっ、ちょっとまってください」
藤代は、慌てて後ろの荷台に飛び乗った。
夕方になっていくらか暑さも和らいだけれど、それでも吹く風は生ぬるい。藤代はサドルの後ろにつかまりながら、目の前の三上の背中をぼんやり眺めてみた。練習が終わって間もないからか、ジャージの背中はまだ汗に濡れている。
「先輩さあ…」
どこか上の空で、背中に呼びかける。心の中では、昼間授業中にグランドで見た三上の姿がそこに重なっていた。返事はなかったけれど、なんとなく耳を傾ける気配を感じたので、かまわず後を続けた。
「なんで、体育のときいい格好しないんですか?」
「なにいってんの」
意味わかんねえよ、と三上が笑った。
「今日、3限みてたんですよ、先輩たち体育でサッカーしてたでしょ」
「ああ…、つかおまえちゃんと授業うけろよ」
「先輩だったらさ、ゴールとかもっとできるのに、なんで裏方に徹するの?もっと活躍できるのに」
「…体育で活躍してどうすんだよ」
おそらく苦笑しているのだろう、背中が微かに揺れた。
「だって、みんな活躍してるじゃん。数学が得意なやつは数学で活躍してるし、バスケ部はバスケではりきってる。俺だってサッカーだったら張り切りますよ」
先輩は、こんなもんじゃないのに。もっとすごいのに。皆にそれをわからせてやりたいのに。体育でおとなしくしてたら、できないじゃん。
ムキになって言い返すと、
「俺だって張り切ってる」
ひどくきっぱりとした声が帰ってきて、少し面喰った。
「じゃあ…」
「でも、おまえと張り切り方が違うんだよ。おまえはFWだからゴールのことを考えてればいい。だけど、俺は周りをどう動かすかってことを考えてる。下手くそなやつが、俺のパスでシュート決めちゃったりするとなかなか快感なんだぜ?」
「……」
「それに、体育だろ。勝ち負けより、皆が楽しんだかって事のほうが大事だと思うし。できるだけ全員にボールもってもらいたい…じゃん」
しゃべり過ぎたとでも思ったのか、最後のほうはごまかすように早口でまくし立てると自転車のスピードをあげた。
「でも、やだなあ」
三上の言ってることは納得できた。そういうもんなんだろうということも、わかる。そして、他ならぬそういう考えかたをする三上だからこそ、こうやって自転車の後ろに乗ったりしているのだ。だけど、気持ちは納得したくなくて、天邪鬼な相槌を打った。
「てか、お前もそろそろ周りのこと気にするようにした方がいいんじゃねえの」
「なんで」
「なんで、って…、もうすぐお前らが一番上になるんだぞ」
あきれた顔で、三上がちらりと後ろを振り返った。夕日に彩られたその横顔を見た瞬間、頭から冷水をかけられたような感じがした。このところずっと、空中にふわふわと浮かんでいた形のない不安が、突如として形になって目の前に現れた気がしたのだ。
「もうすぐって、まだあるじゃん」
けれどそれに気づくのがいやで、ムキになって言い返した。
「すぐすぐ」
風を切りながら、三上が他人事のように笑った。イライラした。うるさい、笑うな。
「俺は、ずっとこのままでいたいです」
汗がひいたのか、三上の背中に張り付いていたシャツが風にふかれてはためくのを眺めながら、ポツリと呟いた。来年のこの時期に、こうやって三上と一緒にいられないなんてことは信じられなかった。授業中見下ろしたグラウンドで、体育に励んでいる三上を見られないなんてことは信じられなかった。
信じたくなかった。
無理やりタイヤの回転を止める、甲高い音がして自転車が停止した。赤信号だった。三上が身をよじるように後ろを振り返った。仏頂面のまま、ぼんやりと座ったままの藤代に、ぐいっと手を伸ばした。思わず、藤代は反射的にぎゅっと目を瞑る。殴られる、そう思った手は、けれど藤代の頭をぐしゃぐしゃと撫でていった。
「俺もだよ」
え?と慌てて顔をあげたときには、三上はもう前を向いて自転車をこぎ始めていた。
「先輩、今なんていいました?」
風に声が絡め取られてしまわないように、大声で言った。
「なんもいってねーよ!」
「うそだ!」
「…一回しかいわねーよ!」
流れてきた声に、さっきの三上の言葉をもう一度反芻する。
―――『俺もだよ』
何が?ずっとこのままでいたいってこと?
心の中のイライラが、急速に萎んでいくのを感じた。
少しだけ躊躇したあと、目の前の背中に手のひらでそっと触れてみた。半乾きの布地の向こう、三上の身体が発する熱が伝わってきて、その熱に心を委ねるようにそっと目を閉じた。昼間見た夢、いつまでも三上の背中に追いつけない夢を思い出す。けれど、今、この手のひらに、彼の体温を感じている。
「―――ま、いっか」
気色悪い!と叫ぶ本人を無視して、藤代は思いっきりその背中に抱きついた。
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