あいつがずるいと言うのなら、多分おれの方がもっとずるいのだ。
手放したくなくて、ずっと見てみぬ振りをしている。ただ、失うことだけを恐れている。
細く開けた扉の向こう。そこにいるはずのない顔を見つけて、後ろめたいことがあるわけでもないのにぎくりとした。今日は予定が入っているから、と誘いを断ったのは、たった今目の前で不機嫌そうな顔をしている男の方からだったはずだ。
「…なんだよ、デートじゃねえの」
無表情を繕ったまま、ぶっきらぼうに言った。
「終わった」
なにが、と問いかけた口をさえぎるように、扉と三上の間を割って藤代の腕が強引に入り込んできた。思わずよろめいた反動で、扉がぐらりと大きく開く。それと同時に外の生ぬるい風が堰を切ったように玄関の中に押し寄せてきた。けれど藤代はその変化にもまるっきり無頓着な様子で、相変わらず三上の胸元までまっすぐに伸ばしたままの腕を軽く振った。
早くしろ、と言いたいらしい。そんなん口で言えよ、と心の中で悪態をつきながら、それでも伸ばされた拳に目をやった。
どうやら、手のひらに何かを握り締めているらしかった。
三上はわざとため息をついて、しぶしぶと手を伸ばした。間髪いれずにするりと落ちてきたものを受け止めて、視線だけを下にむける。
それは玄関の蛍光灯の光を反射させて、視界の端できらりと瞬いた。
「…指輪?」
思考がフリーズしたのは、ほんの一瞬だ。期待をしたのも。
男の指には入りそうにない華奢なそのデザインを見れば、それが一体誰のものなのかは明白だった。ちがうか、この場合、誰のものだったか、だ。
あきれ半分非難半分といったところで、これ見よがしにため息をつく。やばい、いい加減癖になりそう。
「まだ1ヶ月たってねえぞ」
「そうだっけ?」
とぼけた顔でするりと脇を通って、当然のように玄関に上がりこむ藤代の背中に蹴りを入れた。
「痛って!」
「人ん家に入るときはお邪魔します、だバカヤロウ」
苛立ちを露にそう言ったのは、八つ当たりに近かったのかもしれない。
1ヶ月、というだけじゃない。今年に入ってもう5人目だ。それをいちいち覚えている自分にも、いい加減嫌気がさすけれど。
手の中に置いてけぼりになった指輪を、所在無く握り締める。
「オジャマシマース」
「で、この指輪どうしろと?」
「あげる」
「いらねえ」
「じゃあ捨てといて」
ふざけんな、と叫びそうになった。
わざわざこれを俺に渡すことに、何の意味があんの?
何も言わずに捨てればいいだろ?
俺にどんな反応してもらいたいの?
喉まででかかった言葉を、浅く息をしてやり過ごす。心臓の奥が痛い。感情的になったら、全て藤代の思うツボなのだ。そんなのは、自分が許せない。
急速に体温と同化した指輪は手のひらの中でとうに存在感を失っていて、ただその事実だけが重く残る。
ただ単に藤代がこれを買うために金を出したというだけじゃない。真剣に悩んだ上で、この指輪を選んだことを知っている。ころころと相手を変えるくせ、付き合った相手はとても大事に扱うのだということも。
「自分で捨てろよ、…てかお前さ…」
一瞬言い澱んで、リビングに向かう藤代の背中をちらりと見る。手の中の指輪に、ひどい違和感を覚えた。
「…そういうの、そろそろやめろよ」
相手がかわいそうじゃねえか、と言い訳のように口の中でもごもごと付け足した。
言った後で居心地が悪くなったのは、それが本当の理由を隠すために付け足しただけのものだとわかっていたからだ。
藤代が、廊下とリビングを隔てるドアの前で立ち止まる。人ひとりがようやく通れるほどの廊下ではそれ以上進む事も叶わず、三上も仕方なくその背後で歩を止めた。
「いいじゃん、そろそろ先輩寂しそうだったし」
振り返らずに藤代が言った。瞬間心を満たした安堵は、本当の自分の気持ちを見透かされてはいないとほっとしたせいだ。それ以外の意味なんてない。
「はいはい、俺彼女いるし」
できるだけ明るい声でそういって、顔の見えない相手に肩をすくめてみせた。そしてそのまま、藤代の背後からドアノブに手を伸ばす。自分で言い出した事だけれど、この話は早く終わりにしたかった。
「好きじゃないくせに?」
回そうとした手が、止まった。
「…好きだよ」
一瞬生じた戸惑いの隙間に入り込むように、藤代の手がするりとノブを掴む手に重ねられる。
「うそつき」
断定口調で言い切られて、瞬間カッとした。
「うそじゃない…ッ!」
ムキになって振り切ろうとした手を、逆に掴まれてノブから引き剥がされる。そのまま反転した藤代に肩を押されて、身体ごと壁に押し付けられた。背骨が壁にあたって、生じた鈍い痛みに顔を歪ませる。
「なにすっ…んっ…」
文句を並べようとした口を、藤代に強引に塞がれる。さっきドアの隙間に入り込んできたのと同じような強引さで、やつの舌がわずかに開いた唇を割って入ってくる。それに必死に抵抗しようとして、けれど、まるでそれを見計らっていたかのようなタイミングで優しく歯をなぞった舌に、思わず気をゆるめた。瞬間、ふっと笑う藤代の気配がしたのは、きっと気のせいなんかじゃない。中途半端に抵抗した舌が、まるで自分から絡みつくような格好になる。突き飛ばそうと藤代の胸を押した手が、無意識にすべって彼の肩を抱いた。
手の中の指輪が、床に落ちる。フローリングに跳ねる音を、わざと聞き流して気づかないふりをした。そうだ、これは単なる儀式なのだ。互いの距離を確認するための。
そっと離れた藤代が、目の前で笑った。
「でも、俺が別れろって言ったら別れてしまうくらいの好きでしょう?」
「ちが、」
ちがう、そういいかけて、まるで身体がそれを拒否するように喉に詰った。小さく首を振る。先を促すように、藤代が優しい手つきで頭を撫でた。
「…、それ、卑怯」
力なく続けた言葉に、藤代が目を細める。
俺たちはきっと、馬鹿なのだ。
「好き」と言えば壊れてしまうという、馬鹿げた約束に俺たちは縛られている。
そしてできるならば、永遠に。
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