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 ずっと遠くで、花火の音がする。
 まるでどこか違う世界の音が、微かに洩れてくるような大きさで。
 そして耳元では、藤代の寝息がする。それは紛れもなくこちらの世界の音だ。一体なぜこんな事になってしまったのだろうと思いながら、渋沢はゆっくりと草の匂いを嗅いだ。むせかえるほどの草いきれに、少しだけ顔を歪める。
 なるほど、確かに川原はまったくの無人だった。藤代もたまには本当の事を言うらしい。不意にそのことに思い至ると、なんだか変な可笑しさがこみあげてきて、声を殺したまま笑った。そうしてみると不思議なことに止まらなくなってしまって、後から後から湧き上がってくる笑いに横たえていた体を不器用に折り曲げた。体重を受け取る雑草が、微かにカサカサと乾いた音を立てる。
 その時、規則正しく刻まれていた寝息が密かに歪むのを、耳元で聞いた気がした。

 風が吹き始めていた。かすかに鼻腔を刺激する火薬の匂いが、風の向きが変わったことを密かに教える。

 ドン、とまた1つ、花火の散る音が遠く聞こえた。
 キャプテン、と寝言の延長のようなふわふわとした声音で、藤代の声がした。どうやら空耳ではなかったらしい。
「ごめん、寝ちゃった」
「…ああ、よく寝ていたな」
 一瞬答えに躊躇したのは、藤代は決して寝てなどいなかったことに気付いていたからだ。それから、そうやって暗に与えられていた猶予に、結局自分は逃げ出す事をしなかったというその事実に思い当たったからだ。
 確かに、花火大会に出かけようとした渋沢を捕まえて、静かでいいところがあるからと半ば強引にここまで連れてきたのは藤代だった。花火なんて見えないじゃないか、という渋沢の今更な文句に「わかってたくせに」と小さく笑ってから、藤代はごろりと地面に寝転がりそのまま寝入ってしまったのだ。
「花火、あとで買いにいきますから」
 先刻から藤代に背を向けたままでいるのを、怒っているのだと解釈したらしい慌てた声が背後から聞こえた。そのどこか場違いなフォローがおかしくて、思わず笑ってしまいそうになる。けれど寸前のところで腹に留めて、わざと面倒くさそうに振り返った。
「いらない。俺が見たかったのは打ち上げ花火だ」
 ふてくされた声で呟くと、藤代は勝ち誇ったような目をむけた。「…いいの?」と問いながら伸びてきた手に、少しだけ身じろぎする。白々しい、と思った。わざわざ確認を取るまでもないのだ。結局だめだと言っても、同じことになるのだから。手が、渋沢の肩を押した。何の優しさもなく、地面に背中が打ち付けられる。不意に開けた視界に夜空が広がって、まだ鳴り続けている花火の音が不快な音になって耳の穴に入り込んだ。

 花火は確かに鳴っている。なのに、この場所からは、決して本物を見ることはできない。

「藤代、気持ち悪い」
「やめますか」
 ぞっとするほどの優しい声で、藤代が言った。
 途端、なぜだろう、意味がわからない。どこかに溜め込まれていた感情が堰を切ったようにあふれ出してきて、泣き出してしまいそうになった。意味がわからない。困惑したまま、けれど藤代の視線から逃れるために体を反転させようとして、藤代の腕にそれを阻まれる。仕方なく、視線から逃れるように両腕で顔を覆った。
「…、どうしたの」
 落とされたさっきと同じ種類の優しい声に、余計に情けない気分になる。何にこんなに動揺しているのか自分でもわからないのが、恐ろしかった。目の前の藤代にすがり付いてしまいたくなって、けれどギリギリのところに引っかかっていた自意識でそれを押し込めた。深呼吸をくりかえして、頭を満たしかけたそれを強引に排除する。腕を払う。
「すまん、いいんだ、なんでもない」
 なんとか無表情をとりつくろって返すと、薄闇の中で辛うじて見える藤代の表情が、微かに崩れた気がした。同時に、押し殺したくっくという低い笑い声がその口から漏れる。
「…うそだよ」
 瞬きをしている数コンマの間に耳元に近づいた唇が、耳朶をなぞって囁いた。
「やめるわけないじゃん」
 耳の奥に落ちた囁きが細かい粒になって、背筋を通り抜けていったような気がした。藤代のひどく熱い舌が耳の内側をなぞって、濡れた音でいっぱいになる。
 喉の奥で唾を飲み込んだ。熱い息が、腹の底からせり上がってくるのを感じたからだ。
 まさか、言えるわけがないじゃないか。藤代の本音が聞きたいだなんて、そんな女々しいこと。
 藤代は常に強引で、俺はそれに翻弄されるふりをしているけれど、同時にいつだって逃げ道が用意されていた。たとえばさっき、藤代が寝た振りをしていた時のように。俺はいつでも逃げることができた。確かに、俺は強引にここに連れられてきたわけでも、意に反して川原に寝転んでいるわけでもない。確かに、形式上は。
 しかし、と思う。事実、逃げることができないのだ。

 だって、藤代は、決して俺を追ってなどこない。逃げた俺を、追ってきはしない。

 じっとしているだけでも汗が滲んでくるような、ひどく蒸し暑い夜だった。素肌に一枚着ただけのシャツは、すでにじんわり汗で濡れていた。藤代の人差し指が、シャツ越しに鎖骨を軽くなぞる。渋沢は無意識に唾を飲み込んだ。しばらく執拗になぞることを繰り返していた指が、不意に思いついたようにシャツの内側に入り込んだ。反射的に身体を強張らせる。素肌をなぞる藤代の手が、ゆっくりと下りて来る。指の腹が胸の先にふれ、る、と思った瞬間、まるでその緊張を察知したように手が引かれた。
 渋沢は一瞬、ねだるような目で藤代を見上げてしまった自分に気付いて呆然とした。これは違う、と意味のない弁明を心の中で繰り返した。
 違う、自分から求めたわけではないのだ。 藤代は渋沢の視線をにべもなく一蹴すると、わざと苦笑するように口の端をあげた。そして、今までまるで普通の会話を続けていたかのようにひどく自然な調子で、言った。
「ね、キャプテン、自分で脱いで」
「…っ、」
 思わず絶句した。
 ドン、とタイミング良く花火の上がる音が響いて、一瞬藤代の意識がそちらの方にむく。空を見上げたまま、た〜まや〜と楽しそうに藤代が呟いた。あからさまにほっとした。藤代の気が、変わったと思ったのだ。けれど次の瞬間渋沢の上に戻された視線の冷たさに、自分が甘かったことを思い知らされた。
「…ね、脱いで」
 あやすような、優しい声で藤代が繰り返した。無意識に背が震える。
 ―――ここで?
 ―――自分で?
 反問が喉の奥に出掛かって、けれど発することはできなかった。それは懇願という形を取ってはいたけれど、事実上の命令だった。見下ろしてくる冷たい視線を感じながら、渋沢は唇を噛む。逆らうことは、結局のところ、自分にはできないのだ。渋沢は震える手をシャツのボタンに伸ばした。ひとつ、外す。「あ、」と藤代が思い出したように付け加えた。
「それから、自分で慣らしてください」
「…、なに言っ、」
「だって、面倒くさいんだもん」
 返事と同時に覆いかぶさっていた体が反転して、傍らの草むらに腰を落とした。草の揺れる音がして、むっとした草の香りで辺りが乱される。
 胃が、きゅう、と縮む感覚がした。
「できない」
 今度は思ったと同時に、言っていた。
 足元の辺りに座りこんだ藤代が、無表情に視線を寄越す。
「うそ、俺何もしてないのに、ここ勃ってるけど」
「…っ!」
 身体が熱くなった。
 ここ、と指差されたその場所が、さらに質量を増した気がした。渋沢は居たたまれなくなって、背筋を土の上にこすりつけた。
 藤代がククッとわざとらしい笑い声を立てる。勝手に反応してしまうんだ、止めようがない。仕方がないだろう。藤代が向けてくる容赦のない視線に、泣きそうになった。耐えられなくなって視線を外すと、指差していただけだったソコをズボンの上から乱暴に鷲掴みにされる。
「はぁっ……」
 熱い息が漏れた。藤代の手の動きに合わせて、腰が揺れる。惨めだ、と思った。
「あっ……はっぁ…」
「キャプテン、俺に触られただけで興奮するの?」
「ちがうっ、あっ…」
 藤代は、口許に笑いを含んだまま渋沢の乱れた髪の毛に手を伸ばした。そしてかき上げるようにして髪の毛に指を絡ませる。
「…っ!」
 ぐい、と乱暴に髪の毛を引っ張られて、無理やり藤代の方に引き寄せられる。
「大丈夫。キャプテンが俺にしか反応しないこと、知ってるよ」
 耳元でそう呟かれた瞬間、ぱっと、何かのタガが外れた気がした。
 背を起こす。無我夢中で藤代の手を払いのけるようにして、チャックを下ろした。そして勃起した己を取り出すと、憑かれたように手を伸ばした。
「うっ…あっ……」
 藤代が自分の痴態を見ていることが、意識のはじっこにある。すでに勃起している性器を、丁寧に愛撫する必要はもうなかった。もうここまで来れば、快感の絶頂まで追い込んでいけばいい。先端から流れるぬめりを性器にこすりつけるようにして、手を上下に動かした。花火の音は途絶えていて、渋沢が手を動かすたびに濡れた音が辺りに響いた。徐所に速度が速くなる。藤代が見ている。意識の端にある。
 電流のような快感がつま先から頭のてっぺんまでを駆け抜けた。襲ってくる快感に眩暈がする。頭の中で、フラッシュが何回もたかれているよう感覚がした。
 もう、
 イク、
 そう思って背筋を仰け反らせた瞬間、しばらく無言で見つめていた藤代が唐突に腕をつかんだ。
「まだ、だめ」
 無情に言い放たれたその言葉に、渋沢は息が止まった気がした。
「そのままで、いて。イッちゃだめだからね。花火買ってくる」
「ふじし、」
 泣き声に近かった、と思う。ひたすら絶頂だけを目指して追い詰めてきたのだ、それを、なんで今更。なに、花火? イキたい。渋沢は襲ってくる快感の波に耐えながら、ぎゅっと目をつぶった。イキたい。思考がそれでいっぱいになるのを、奥歯をかみ締めて阻止した。ゆっくりと唾を飲み込んで、目を開ける。
「…できるでしょう?」
 まっすぐ見下ろしてきた瞳は、この状況に似合わず懇願している色があった。その理由を考える前に、ほとんど反射的にうなずいていた。藤代が、どこかほっとしたように微笑んで立ち上がった。
「はあっ……っぁ…」
 胸が苦しい。
 あと少し、あと少しで楽になれるのに。
 身体が燃えるように熱い。熱が、冷める気配はなかった。藤代の背中が遠ざかっていく。待て、と思った。藤代に一言、一言、言ってやらなきゃならない。
「そんな風に試さなくたって、俺はどこへも行かない」
 それが実際言えたかどうか自分でも定かではなくて、朦朧としたまま草の中に倒れこんだ。
 そして、悪夢を見る。藤代が永遠にこの場所に戻ってこない、という悪夢を。

 遠くで花火が、クライマックスを迎えている。


(Fin. 2007.03.19)