in the Pool of Shining

 





 窓から差し込む日の光が、空っぽの廊下に降り注いでいる。
 校舎にそって植えられた針葉樹の枝が時おり風に揺られて、そこに影を落とす。その上を造作なく踏みつけて歩きながら、三上は大きなあくびをひとつした。
「ねみぃ…、平和だな…」
  頭がぼうっとする。おそらくそれは寝すぎたせいという以外の何者でもないのだろうけれど。…何時間寝たかな、1,2,3,と指折り数えて見て、けれど8,までいったところでふと思い出したように三上は立ち止まった。目の前には自動販売機が、まるで存在を示すように大きなブォォンという低い機械音を静寂の中に響かせている。
「…ご機嫌うかがいにコーヒーでも、」
 三上は独り言を呟きながら、面倒くさそうにポケットから硬貨を取り出した。

 


 渋沢の電話で目が覚めたのは、ついさっきのことだ。卒業生の送迎会のことについてクラスで話し合うから、日曜の13時に教室集合、と決めたのはクラス責任者(むりやりなったのだ、とか言い訳は山ほどある)の三上に他ならなかった。けれど昼ごろ、渋沢に先に行って教室の鍵をあけておくよ、遅刻するなよ、と布団ごしに声をかけられて適当に返事をしたのが最後。次に意識が戻った時にきいたのは、電話越しでもわかる渋沢の不機嫌な声だった。慌てて飛び起きて時計をみれば、もう時刻は15時になろうとしていた。悪い、悪い、と何度も謝ると、『もう皆帰ったけど、とりあえず決めることだけ決めておいたから、こっちこい』と言われ、それに今度は翻ってひたすら礼を言うと、ため息と共に何の言葉もなしにブチリと電話は切られた。

 


 「こんなうららかな午後に、そんな不機嫌にならなくてもいいじゃんねえ?」
 三上は手にした缶コーヒーに向かって口を尖らせてみせてから、自分の気持ち悪さに顔を歪めた。あほだな俺。ていうか独り言多すぎて気持ち悪い。今度は心の中で呟いてみて、ごまかすように一段飛びで階段を駆け上がった。

 


  ガラリ、と無造作に開けた教室の扉の音が、予想外に反響して三上は反射的に肩をすくめた。なんとなくそれ以上あける気にはなれなくて、僅かに開いた隙間から無理やり体をねじ込む。そして後ろ手にゆっくりと扉を閉めながら、
「しぶさわ…」
 と遠慮がちに声をかけた。けれど期待した応答はなく、不審に思いながら恐る恐る顔をあげると、一瞬、窓から一斉に差し込んでいた日光が目に飛び込んできて、強引に視界をふさいだ。まぶしい、と思う間もなく真っ白になった視界に、三上は反射的に顔をゆがめた。目を閉じた瞼の裏に、チカチカと星が瞬いている。思わずよろりと傍らの机に手をついて、それを落ち着かせるように数度瞬きをする。そうしてようやくあげた視線の向こうで、逆光の中に渋沢のシルエットが浮かび上がった。
「……おい、」
 いるんじゃねえか、なに、シカト?眉間にしわを寄せてみせてから、どすどすとわざと大きな足音をたてて、窓際の渋沢の机に向かう。

「しぶさわっ?」
  首をかしげるように覗き込むと、伸びすぎた前髪が額をさらりと流れた。そのくすぐったさに少しだけ口元を緩ませかけて、けれど次の瞬間視界に入った光景に、その体勢のまま固まってしまった。
 手に持っていた缶コーヒーがするりと滑り落ちて、それが床に当たって響いた音に我に帰る。そうして気が抜けたように、三上はその場に座りこんだ。

「ね〜て〜ん〜の〜か〜よ〜」
 座り込んだせいで同じ高さの目線になった、渋沢の顔をぐっと睨み付ける。けれど帰ってくるのは規則正しい寝息だけで、三上は幾分拍子抜けしたように肩を落とした。
「おいおい、俺どうすりゃいいの?」
 こんな気持ちよさそうに寝てる人間をわざわざ起こすほど鬼でもないし(第一、寝起きが不機嫌な野郎をあえて起こすなんてどうかしてる)、もし放って帰ったら、後でどんな愚痴を言われるかわかんねえし……、あ〜もう面倒くせえ!三上は頭を抱えるようにしてかきむしると、渋沢の突っ伏している机のすぐ前の席の椅子をひいた。背もたれをお腹に抱え込むようにして座って、渋沢に向き直る。
「おーおー、気持ちよさそうに寝ちゃってこいつ……、最近がんばってたもんなあ…」
 なんちゃって…。ちょっとそういうこと言ってみたかっただけ…です。もごもごと口の中で呟いて、三上は少しだけ身を乗り出した。
 椅子の背もたれが、三上の体重を受けてギィ、と悲鳴をあげた。

 三上はゴクリと唾をのみこむ。
 戸外の物音は、何一つ聞こえない。空っぽの教室の中に、時計の音が耳障りに響いている。
 チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、
 それはひどく規則的に、けれどどこか情緒的な響きをもって。

 チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、


「……、渋沢…?」


 三上は不意に真顔になって、確認をとるような慎重さで目の前の男の名を呼んだ。けれど相手の反応はさっきから変わらず、静かな寝息をたてているばかりである。三上はそれに安堵のため息をついた。
 窓から差し込む日光の暖かさが、体のずっと芯まで染み込んで来るようだった。少しだけ開いた窓から吹き込む風が、カーテンを気まぐれにはためかせている。
 陽光に照らされた渋沢の表情は、ひどく幸せそうだった。
 ふと、日曜の昼下がり、ベランダで日向ぼっこをしながら、寝てしまったお袋の寝顔を見て微笑んでいた親父を思い出して、三上は目を細めた。幸福なガキだったんだなあ。今さらのように思って、三上は小さく息を漏らした。すうすうと聞こえる寝息に耳を澄まして、相変わらずそれが規則正しいことを確認する。
 …なんでかなあ、顔は全然似てないのに、寝顔の雰囲気がどこか、お袋に似てる気がする…、んだけど。何かに誘われるようにゆるゆると伸ばした手で、渋沢に触れようとして一瞬躊躇する。もともと淡い色の渋沢の髪の毛に陽光が当たって、それがよけい明るさを際立たせている。机に反射して跳ね返る光のまぶしさに目を瞬かせながら、三上はぎこちなく渋沢の髪にふれた。そっと髪に手をからませてそれを梳くと、指の間でさらりと髪の毛が流れた。けれども思ったよりだいぶ硬質感のある髪の毛に、三上はどこかで少しだけがっかりした。髪から手を離した時の、指先に残った髪の生ぬるい感触が後をひいて、三上はもう一度手を伸ばした。それからまるで憑かれたように、同じ行為を何度も繰り返す。そして何度目かに髪をすいたとき、指先が不意に渋沢のうなじに触れて、条件反射で三上は体をこわばらせた。けれど渋沢に何の反応もないことを確認してほっと胸をなでおろす。

 三上はぼんやりと右手を見下ろした。指先に残ったひどく熱い渋沢の肌の感触が、指先をじんじんとさせて、そしてその痺れが急速に全身に広がっていくような錯覚を覚えて、三上はぎゅっと目をつぶった。

 指先が、じんじんする。
 触れたくてたまらないと、そう叫んでいるのが聞こえる。

 

 いつだったか、渋沢の心臓の音を耳元できいた。ああ、あれは一度も出られなかった試合の後だったっけ。不意に脳裏に蘇った記憶に、三上はゆるく細く、息を吐き出した。


『三上』
 渋沢の声に振り向くと、ごめん、と半分困惑したような顔でやつは頭をさげた。意味わかんねーよ、と試合に出れなかった苛立ちから当り散らすように睨み付けると、やつはますます困った顔で、
『今日の試合勝ってれば、次の試合は三上が出れたかもしれない』
と、それが間違えようのない事実とでもいうようにぼそりと呟いた。
『…んだよそれ…、なめてんのか』
 ふざけんな、と思った。心の底から。もしそこが試合後のグラウンドという場所ではなかったら、張り倒していたところだった。
 思えばあの頃は、自分のことだけしか見えてはいなくて、悲しいくらいに自分勝手だったのだ。渋沢の才能と性格が、疎ましくて仕方なかった。ようするに、ただのガキだったのだ。今から思えば。
『…ちが、う』
 まるで苦痛を訴えるような表情で渋沢はそう絞り出した。じゃあ何だよ、と返しかけたところで不意に渋沢の火照った手のひらが、冷たいままの三上の首筋に触れて、その刺激に押さえ込んでいた嗚咽がどっと漏れた。それを隠すように渋沢の胸に頭を押し付けると、早鐘のようにドクドクと波打つ渋沢の心臓の音が耳元で響いた。

 ドッ ドッ ドッ ドッ

 響いた、そして今も―――、響いている。

 

 三上は目を瞑る。思い出にひたるというよりも、そのどこからか響いてくる音に、耳を澄ませようとするかのように。
 
 何故だろう。あれから一度も彼の心臓の音を聞く機会がなかった、というわけでは決してないのに。その音は、まるで呪縛のように三上の意識に刻みこまれる。刻み込まれた。
 響く音に相乗して、心拍数が上昇していくのを自覚する。耳元で、血液が脈打つ音がする。
 ひどく熱かった。

 指先が、じんじんする。
 もっとずっと、身体の奥の方から、もっと、何かが。


「なあ、実はおきてるとか、なしだからな?」
 人差し指の腹で渋沢の唇にそっと触れて、その弾力に眩暈がした。渋沢、おきてくれ。お願いだから、起きてくれ。発する言葉とは相反した思いを半ば乞うように繰り返した。直射日光に暖められた身体とは別のところで、もっと別の種類の熱がじわじわと細胞を侵食して、身体全体に広がっていく。二種類の熱が頭のてっぺんで混ざり合ってぐちゃぐちゃになったような感覚に、三上は理性が渦に飲み込まれていくのを見た気がした。頭がぼうっとして、何も考えられなくなる。
 熱に、溺れる。
 三上は背もたれに全体重をかけた。
 ギィ、と金属のきしむ音が低く響いた。


「…ん、」
 渋沢のうなり声が、三上を凍りつかせた。唇に顔を近づけようとした姿勢のまま、三上は渋沢の睫毛をじっとみる。小さく震えたその繊細な毛先の動きが、束の間の時に終りを告げる音を聞いた。三上の中で生まれた熱が急速に冷却していくのを、どこか遠くから観ているような気分で眺めていた。
 三上はゆっくりと身体を後退させる。
 渋沢は夢から覚醒する。
 教室は相変わらず、太陽の眩い光に満ちている。

「三上…?」
 彼は眩しそうな顔で、三上の名を呼んだ。
 三上はそれに、小さな充足感を覚える。
「ごめん」
 そっぽを向いたままそう投げやりに呟くと、渋沢はたちまち事態を思い出したようで、遅い、と不機嫌に一言呟いた。三上はそれにくっくっくと可笑しそうに咽喉を振るわせる。
「なにが可笑しいんだ」
「だってお前、寝てるんだもん」
「お前が遅いからだろ」
「ハイハイ、そうですよね〜」

 窓の外に目をやると、飛行機が一機、悠々と真っ青な空を泳いでいた。

「さ〜て、サッカーでもするかな〜」
 三上は椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「ふざけんな」
「いいじゃん、やろうぜ」
 渋沢の反論を遮るように、三上はのろのろと教室の出口へ向かう。さっきから一度も、渋沢の顔を見ていない。
「三上」
 教室のドアに手をかけたその時、渋沢がやけに響く、けれどひどく静かな声で言った。三上はわずかに動揺する。けれどそうとは悟られないように、ぶっきらぼうに言葉を投げた。
「…あ?」
「誕生日、おめでとう」
 ドアにかけた手が、その姿勢のまま凍りつく。返そうとした返答は、唇をなめらかにすべり落ちた。

 振り返ることはできない、だって渋沢は、あの眩しすぎる光のプールの中で、悠々と泳いでいるのだから。

 


 

 

Happy Birthday to Mikami!
2006.1.22