First


Contact 4

 

 

 「ごちそうさま〜」
 言葉と共に律儀に合わされた手のパン、という音がやけに大きく部屋に響いた。

 タイムアウトだ―――

 その言葉が頭をよぎった瞬間、目の前が真っ暗になった気がした。一向に変化の兆しが見えない手の中のそれに、三上は絶望を感じて力なくうな垂れた。足元に落ちている埃が目に付いて、なぜだか無償に泣きたくなった。
「残り汁いる?いんねえか」
 弟が汁好きなんだよね。とひとり言のように呟きながら、誠一が椅子から立ち上がる。椅子の脚が床にすれる耳障りな音が響いて、ほとんど反射で肩を揺らした。くるな、と思った。叫びだしそうなほどに。けれど実際は、くるな、くるな、くるな、と念仏のように心の中で繰り返しながら、足元の埃をただ凝視することしかできなかった。埃が、不意にふわりと舞い上がった。思わずそれを追おうとして、突然視界の端に割って入ってきた黒いジャージに慌てて目をそむけた。ゆっくり、ひどくゆっくり、足音が近づいてくる。心拍数が、増した気がした。
「みっかみく〜ん」
 心臓が大きく跳ねた。
 返事をしようとした口からは、けれどカラカラに渇いた喉がはりついて上手く音がでなかった。凝視し続けていた埃がどこかへ舞っていってしまって、それがよけい心細さを助長した。
「…俺さ、俺が食べ終わるまでになんとかしろっつったよね?」
「…は、い」
 声が震える。
「脱げっつったよね?」
「…っ、」
 ちがう、と思った。脱げば?とこの人は言ったのだ。あれは命令じゃなかった。けれどそれを言ってしまえば、余計に状況が悪化することは目に見えていた。口からでかかった言葉を、懸命に耐えてぐっと喉の奥に押し込んだ。
「それから、」
 言葉より早くぶしつけに伸びてきた手に前髪をひっぱられて、思わず顔を歪めた。無理やり上げさせられた視線が、誠一の冷たいそれと交差する。唯一自由を許されていた視線でさえも逃げ場がなくなって、三上はひどく狼狽した。
「話してるときは話してる人の目をみようね〜」
「…」
「返事は?」
「っ、ハイ」
「お前さあ、わかってる?お前が俺に逆らう権利なんてあげてねえよ?」
「…ッス」
「さらに、だ。俺が言い出したわけじゃねえぜ。自分の言ったことには責任もつんだな」
「…、ハイ」
 言い返せるはずもなかった。たしかにそうなのだ。三上はぎゅっと拳を握り締めて、刺すような視線に懸命に耐えた。
「じゃあ、今日は許してやる」
「!?」
 思わずぱっと目を見開いた。気まぐれで垂らされた救いの糸にすがりつくような思いだった。
 けれど次の瞬間くっくと心底可笑しそうに身体を折り曲げて笑う誠一が目に入って、三上は緩みかけた顔を強張らせた。
「な〜んちゃって、嘘だよ、俺がそんな簡単に許してやるほど甘いと思った?」
 今のお前のカオ!まじおもしろかった!誠一は笑いすぎてぜいぜいと肩で息をしながら、苦しそうに膝を叩いた。
「……っ」
 三上は悔しさに奥歯をギリ、と噛み締めた。湧き上がる嫌悪感に吐き気がする。最低だ、と思った。この人は最低だ。俺が憧れた藤代誠一は、こんな人じゃなかった。違うんだ、もっと。胸が苦しかった。自分を支えていた支柱が崩れていくような気がして、三上は身体を支えることを放棄した。誠一に引っ張られた髪の毛に体重がかかって、引きつるような痛みがした。痛い。でも、もっと苦しい。
「おい、睨んでんじゃねえよ」
 低い、そして冷たい声がした。
 もう、どうにでもなれ。ほとんど自棄になって、ぎゅっと目を瞑った。
 このままここにおいていかれようと、殴られようと、嫌がらせをされようと、これからずっと無視されようと、それはもう構わない。もう、いいのだ。そう思って覚悟を決めると、少しだけ楽になった。
 けれど。
 けれど、だ。1分たっても、2分たっても、想定したような事態は何も起こらなかった。というより、何も。誠一は動きもしなければ、言葉も発しない。異様な空気が給湯室内に張り詰めて、三上は我知らず唾を飲み込んだ。空気が固体になってしまったようで、うまく息ができない。
 しばらくして、とうとう観念した三上はおそるおそる目を開けた。薄く目をあけた向こうで、誠一がさっきのままの体勢で停止しているのが見えた。
 …なんだ?
 思わず眉を寄せる。

 そして、瞬間、あ、と思った。

 あのいつかの雨の日に感じた奇妙なざわめきが、突如として胸の内に蘇ったのだ。脳裏に、あの日の光景が映し出される。ひどく鮮明に。
 雨の音が耳に入り込んできた気がして、三上は身震いした。ざわめきが内側を侵食するように徐々に広がって、飲み込まれていくような錯覚を覚えた。三上はその恐怖に抗うように、小さく咳き込んだ。
 まるでそれが契機だったかのように、誠一がぴくりと動いた。
 反動で掴まれていた髪の毛がさらに引っ張られて、三上は声にならないうめき声をあげた。けれど平然とそれを無視した誠一が、ゆらり、と、ごく自然な動作で足を踏み出した。
「…!?」
 ぎょっとした。

 踏み出された足は再び床につくことはなく、床にひざ立ちしていた三上の股間を乱暴に踏みつけた。ほとんど何の構えもなかった体が、押された反動で下に落ちる。床に正座する格好になったけれど、誠一の足から逃れることは出来なかった。まるで見せ付けるようにスリッパの裏を擦り付けられて、三上は後ずさりした。しかしすぐに壁にぶつかって、逃げ道がないことを思い知らされる。
「やめてくださっ、」
「黙れ」
「先輩っ」
 ほとんど懇願するように必死な表情で見上げた。けれどそれに続いた誠一の言葉に、その日何度目かになる絶望を覚えた。
「俺を怒らしたらどうなるか、…教えてやるよ」
 さっきまでのからかいを含んだ声音とは僅かに違う、感情を滲ませた声音に体重を乗せた腕が勝手に震えた。


 

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