Othello


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 カァン―――
 不意にプラスチック製のモノが缶に当たったような、くぐもった高い音が響いて我に返った。
「先輩の番ですよ」
 しまった、と思った俺の思考よりも早く、音を発した張本人が抑揚のない声で言った。部屋は暑くもなく寒くもない。ぼんやりしていたことに対する適当な言い訳も浮かばないまま、苦肉の策で床に落としていた腰を身じろぎさせた。
 今の瞬間何を考えてぼんやりしていたかなんて、多分八割がたばれている。
「うん、…で、どこ置いた?」
 だからここは早々と白旗をあげる。床に置いた緑色のフェルト地上に広がった白と黒の分布を見下ろして、密かにため息をついた。間髪入れず短い笑い声が落ちてきて、俺は怪訝な表情で顔をあげた。相手は、ベッドの上で寝そべったままこちらを見下ろしていた。目が合う。
「さて、どこでしょう」
 楽しげに目を細めると、手にしていた缶ジュースを器用に口に運んだ。藤代、と俺は思わず口にする。
「寝ながら飲むんじゃねえ」
「あれ、キャプテンみたいなこと言う」
「…そこ、誰のベッドだよ。こぼしたらただじゃおかねえからな」
「あ、なんだそういうこと…いいじゃん、ちょっとくらいオレンジくらいの色がついた方が、ポップな気分になるよ」
「なんだよポップな気分って」
「あれ、突っ込むとこそこ?」
「だっから飲むなっつの、バカ」
 ははは!と声をたてて笑いながら、藤代は缶ジュースをぐいと一気にあおった。人の話などはなっから聞いちゃいない。俺は呆れたまま床に視線を落とすと、散らばった白黒の駒の中から無造作にひとつを手にとった。
 盤上の戦況は、黒が優勢だった。

 藤代はオセロが、冗談のように強い。少なくとも武蔵森学園内においては、こいつに勝てる奴は一人もいない。そう、たったの一人も。
 けど、これは単なる遊びだ。勝てない戦ほど面白くないものはない。だから負ける度に絶対こいつとはもうやらない、と思いつつ、結局こうやって対峙してしまっている自分が馬鹿らしい。別にオセロが強くなりたいとかそういうわけじゃない。ただ単純に、認めたくないだけだ。頭脳戦でも、こいつに負けるなんてそんな馬鹿なこと。

 でも、オセロっつのは頭脳じゃないのかもな、感覚なのかもな。
 負け惜しみのようにそう思って、定めた一箇所に指を伸ばした。
「…うそだよ」
 白い面を上にしたコマをパチリと小さな音をさせて置くと、同時に藤代が言った。え?と俺は無造作に目だけを上げる。
「先輩の番っていうの、うそ」
 藤代は口元だけを笑う形に作りながら、けれどひどく冷淡な視線を向けた。俺ははっとして、ほとんど反射的に舌打ちをする。
 どうせ勝つくせに、下手な小細工なんてするんじゃねえよ。
 藤代が今日この日にオセロを持ち出してきた所の本当の意図にピンときて、苛立ちがむずむずと腹の底から這い上がってくる。
 うそだ、わかってはいた。藤代が勝負のしがいのないオセロを持ち出すのは、いつだって主導権を握るためだ。オセロに思考を半分もって行かれれば、その分俺の思考の作業効率は低下する。自明の理だ。
 盤上に並んだオセロをぐちゃぐちゃにしてやりたい衝動を耐えながら、
「オセロの極意……裏を読め、ですか」
 茶化すように肩をすくめて、苦笑いを返した。
「残念。裏の裏を読め、です。先輩の負けだ」
 言い終わるが早いか弾かれるように響いた笑い声にまぎれるように、違う、と俺は小さくつぶやいた。
「え?」
「昼間のことをまだ言ってるなら、お前いい加減しつこい」
「しつこい?」
 心外だ、とでもいうふうに藤代が眉を寄せた。
「しつこいだろ。何度も違う、って言ってんじゃねえか。俺はあの人が嫌いだって」
「…じゃあ、さっきぼんやりしてたのは何?何考えてたの?」
 身を乗り出して重ねてくる藤代の問いに、瞬間頭に浮かんだあの人の姿を懸命に追い払った。本当に、心底嫌いなのだ。けれど藤代の視線を微かにずらしながら、俺は力なく答える。昼間廊下で会った「あの人」、藤代先輩のことを考えていたのは、確かに事実だ。
「…眠かったんだよ」
「へえ…この時間に?」
 珍しいこともあるもんだね。
 と、つぶやいたその一瞬。藤代の仕草と声の調子が、「あの人」の姿にシンクロして、俺は小さく息を飲んだ。
 馬鹿な、違う、これは藤代だ。
 軽い動悸をおさえながら、2、3瞬きをする。
「藤代」
「はい?」
 返ってきたふてくされたような声音に、俺は何故だかひどくほっとした。
「俺はあの人が嫌いだ」
 今度ははっきりとそう呟くと、藤代が微かに笑う気配がした。注ぎ込まれる安堵が、揺らぎかけた自信を補強してゆく。顔を上げるよりも早く、音もなくするりとベッドから降りた藤代が俺の頬に手を伸ばした。地肌に触れた冷たい手に思わずびくりと体を震わすと、
「俺のことは?」
 無理やり視線を合わせられる。
「オセロが…」
「うん?」
「オセロが、強い」
「何それ」
 拍子抜けした藤代の間抜けな顔が心底おかしくて、耐え切れずにクックと笑いを洩らした。
「…お前変なカオ」
「先輩、おぼえといて。俺、先輩のこと、すっげえ好きだよ」
 どこか途方にくれたような表情で言われて、俺はもう一度笑う。
 そうして俺は、そうやってごまかすことの狡さを心の隅っこでちゃんと知っている。

 床に散らばったオセロの駒を踏み散らして、藤代が冷たい手を俺の背中に回した。蹴り飛ばされたそれが遠く壁に当たって弾かれる音を聞きながら、俺は静かに目をつぶった。

 

Fin.