Secretary,

and

President





 「―――でしたら、その条件は呑めません。他をあたってください」
 渋沢は電話の向こうに一方的に言い含め、乱暴に受話器を置いた。レトロなところが気に入って購入させた、黒いダイヤル式の電話がチン、というどこか親しみのある機械音を社長室に響かせる。
 けれどその音にわずかに眉を寄せてから、渋沢はソファに深く身体をうずめ、肩全体で息をついた。
 肘掛け椅子の黒い革製の材質が、渋沢の身体をつつみこんで断片的に照明を反射させている。渋沢は手のひらの下でその滑らかな感触を味わいながら、ぼんやりとその部屋を見回した。正面のデスクには整然と書類が並べられていて、壁に沿って並んでいる本棚は欠落のひとつも見当たらず、踏めば程よい弾力性を感じる絨毯にはチリひとつ落ちていない。見渡すところ、文句のつけられそうな所はひとつとしてみつけられそうになかった。
 ―――おもしろくない。
 渋沢は不機嫌そうに呟くと、上半身に力を入れ椅子を回転させた。そして途端視界に広がった都心のパノラマを、無感動に一瞥する。背にしていた壁は一面のガラス窓になっていて、高層ビルの上層階に位置するこの部屋からは、都心が一望できた。
 見慣れると屑みたいなもんだ、と東京タワーを視界に納めながら無気力に思った。
 不意に、卓上の黒電話からジリジリという古風な音が静寂を突き破って鳴り響き、渋沢はそれに舌打ちしたい気分になる。
 回転を戻して黒電話を憎憎しげに見やると、それを取る気配もなく目をふせた。
 しばらくして慌しく正面に位置するドアが開き、
「しつれいします」
と、どこかとって付けたような声が同時に響いた。入ってきた男はぞんざいな態度でドアを閉めると、社長、と短く付け足した。
 渋沢はゆるゆると顔をあげる。目が合って、彼はちらりと何かを言いたげに電話の方へ視線を送ると、鳴り響く電話のベルにあからさまに不満気な表情で顔をゆがめた。
 渋沢はそっとため息をつく。目の前にたちはだかっている男は、名目上社長である自分の、秘書に違いなかった。
「…山田商事だ、おそらく」
 渋沢がぶっきらぼうにそう言うと、彼はすぐに何かを会得した表情になって、次にはふっと馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
「社長も性悪ですね。かわいそうに、あの様子じゃ、多分今ごろ大慌てですよ。あまりいじめるのも問題かと」
「…いじめてるんじゃない、これはビジネスだ」
 腹に力を入れてそう返すと、藤代誠一という名のその秘書はお手上げ、とでも言いたげなポーズをしてみせる。
「同じようなものでしょう、弱いものから搾取するという点から見たら」
「…じゃあ、君ならどうするんだ」
 冷静さを失うのは禁物だった。ゆっくりと誠一から目を離しながら、渋沢は逆に問い返した。答えに困った時の常套手段だ、同じ質問をそっくり返すというのは。
「同じですよ、社長と」
 誠一は満足気ににやりと笑うと、立ち止まっていたその足を渋沢の座っているほうへゆっくりと踏み出した。
 電話のベルが最後に甲高い音をひとつたてて鳴り止む。
 不意に音もなく広がった静寂に、渋沢は敗北宣言のような長いため息をついた。
「だいたい、―――なんで貴方が秘書なんだ」 
 渋沢はなぜだかひどく脱力して体重を椅子の背にあずける。ギシ、というさび付いた音が部屋に反響した。
「随分ないいようだね」
 誠一の足はデスクを通り越し、ガラス窓の手前でようやく止まった。そして今日はいい天気だね。と、独り言のような言葉をそれに付け足す。
「違う、そういう意味じゃなく、」
 気色ばんで言いかけた渋沢の言葉を、誠一は笑い声で遮った。
「気楽だからね、こっちの方が」
 間髪いれず帰ってきたその答えに、渋沢はあからさまに嫌な顔をしてみせる。

 どう贔屓目に見てみても、藤代誠一の持つ才能は社長である自分の能力を凌駕していた。そしてそれは昔からそうだったのだ、かつて彼が先輩で、渋沢がその後輩だった少年時代だった頃から。誠一は、今だからこそ笑ってしまうけれど、あの当時は1世紀に一度現れるか現れないかの天才とまでいわれた男だ。同級生は言うに及ばず、先生から大人から誰からも一目おかれた存在だった。
 しかし期待を一身に背負って、彼は一切の期待に答えることはなかった。彼が大学進学も就職でさえもしなかった時の、周囲の落胆は表現のしようもないほどだった。
 だが一方で、誠一は確かにまれに見る天才だったのだ。
 ―――自己保存を完璧に遂行するという、そういう意味での。

 

 渋沢は物憂げに誠一を見やった。
 そして彼がこうやって秘書におさまるまでは、筆舌尽くす経緯があったのだ。
「だいたい社長、裁量権は貴方にあるんですよ。いやなら解雇するなりなんなりすればいい。俺は訴えたりしないですから」
「……」
 演出としてのため息をつきそうになって、けれど寸前でぐっと堪える。そんな小道具が通じる相手ではなかったと思い直したからだった。かわりに、呆れたような視線をくべる。
「沈黙は、貴方はまんざらじゃない、と考えてもいいということかな?もっと直接的に言えば、俺がいないと困る」
「……考えることは自由だ」
 喉の奥から締め出すように答えると、誠一は嘲笑を浮かべる。
「社長は心がお広いようで感心いたしました。…じゃあお言葉に甘えてこう考えよう。社長は俺がいないと困る。俺以上にお前を満足させられる男はいないから」
「……」
「沈黙は肯定ととらえるよ」
「……」
 誠一が真面目に取り繕っていた顔をふっと緩ませ、きっちりと締めていたネクタイに手を伸ばして無造作にそれをゆるめる。そして窓辺から音もなく離れると、渋沢の方へするりと近づいた。渋沢はついさっきまでの雰囲気とは異質なものを空気の中に感じて、無意識に背筋を緊張させた。不意に、エアコンの立てるカラカラという微かな音が意識されて、それに対応するように喉の渇きを覚える。
「…やっぱりお前は変態なんだなあ」
 すっと伸ばした手で渋沢の座っている椅子を回転させ、自分の方へ向けながら誠一が感心したように言った。
 渋沢は目前に立ちふさがる誠一を、できるだけ無表情に見あげる。しかし誠一の表情は逆光で陰になっているそのせいで、見えない。不意に沈黙を割って伸びてきた手をさえぎるように、感情を押し殺した声を発した。
「…30分後に会議がある」
 冷笑するような気配がして、渋沢はそれに心臓を素手でなでなれたような不快さを感じる。
「残念、さっきの瞬間でお前の社長権限は切れたんだよね」
 ちゃかすような口調で彼が言う。渋沢は眉間に皺をよせて、ため息をついた。
「…藤代」
「だーかーらー」
 呆れたような仕草で誠一が肩の力を落とす。けれどすぐに思い直したように、伸ばしかけて中途半端になっていた手を渋沢の方へ向けた。傾く上半身が、渋沢の膝に影を落とした。
「…誰がタメ口きいていいっつった?」
 低く発せられた言葉に、全身の毛穴が粟立った。
 さらりと触れられた頬と、逆光から逃れて露になった誠一の表情が、渋沢を遠まわしに追い詰める。後ずさろうとした体はけれど、椅子の堅牢な背に阻まれて、逆に絶望感を募らせた。
「…やめ、ろ」
 なおも拒絶するように呟くと、誠一の口元が可笑しそうに歪んだ。
「お前ほんとに頑固だね。…三上なんかひと睨みで屈服すんのに」
「…三上?」
 不意に出されたその名前に思わず反応すると、おっと、と誠一は大げさに肩をすくめてみせた。
「こっちの話しですよ、社長」
 ごまかすように伸ばされた手で、ネクタイを剥ぎ取られる。
 渋沢は発せられた言葉の意味を考えようとして、けれどすぐにそれも無駄な事だと思って投げ出した。彼が誰とどんな関係を持っていたとしても、それは関係のないことだ。どこまでも俺は社長で、彼は秘書なのだ。それは事実以外の何者でもない。そうである以上、それは確かにある関係性ではあるのだ、そうだろう。
 その関係性がどんなに儚いものだとしても、だ。

「……っ!」
 乳首に爪を立てられて、渋沢は喉から搾り出すような呻き声をあげた。
「お前のプライドが崩れる様を見るのが好きだよ。…これは愛情かな?」
 すでに立ち上がった乳首を指先でくるくるともてあそびながら、誠一は独り言のように言った。けれどすでに身体に熱が生まれてしまったことはもうどうしようもできなくて、渋沢は悔しさに歯噛みする。
「しらな…っ」
 しりません、でしょう。くっくと喉の奥で、誠一が笑う。指の腹でゆるゆると表面を撫でられて、先刻つけられた爪あとの余韻が、激しく疼いた。
 舐めてほしい?誠一が耳元でわざとらしく囁いて、それが全身を震えさせる。芽生えた羞恥心が身体を包んで、精神と肉体の境界線が曖昧になる。快感はどこからあふれ出ているのか、見当もつかなかった。誠一が答えを待たず乳首を口に含む。ざらりとした熱い感触が、むき出しの性感を逆撫でするような感覚に、渋沢は堪えていた声を漏らした。
 下半身に熱が集まるのを感じて、さらにいたたまれなさに唇を強く噛む。

 誠一の手がベルトに伸び、慣れた手はスラックスと下着の下から性器を探りだす。もうすでに勃起しているそれを無造作につかまれて、乳首とは違う直接的な刺激に渋沢はたまらず、うっと喉を鳴らした。
「乳首だけですごいですね、社長」
 揶揄するような口調でそういって、誠一は性器の先端に、伸びた爪を食い込ませた。
「……っ、アァッ…!…!」
 前触れなく襲った強烈な刺激に、渋沢は身体を波打たせた。
「…くっぅ…、あっ、や、やめ…っ!」
 強引に引きずり込まれるような快感の海に、本能的な恐怖を感じて椅子にしがみついた。けれど視界のはじで不意にうごいた誠一の気配に、渋沢は直感で嫌な予感を覚える。
「…やめていいんですか?」
 発せられた誠一の冷たい声が、渋沢の予感を裏打ちしていた。誠一の手が、まるでなんの未練もなく渋沢の性器から離れる。放り出された熱は、けれど変わらず打ち震えている。先端から流れ出る液体に、身体が震えるのを懸命に抑えながら、渋沢はおびえたように誠一を見あげた。欲望は、もうほとんど限界に達していた。
「社長が嫌だということを、私がやるわけには参りません」
「なっ……」
 何を今更、叫ぼうとして、けれど喉からあふれ出た喘ぎがそれを邪魔する。嫌な予感が背筋を冷や汗になって流れ、限界までふくれあがった熱と悪寒が錯綜して、もうわけがわからなかった。
 誠一はかしこまって一歩後退すると、軽く頭を下げた。
「失礼しました。もうこのようなことは致しません。後ほど会議にお呼びしますので、失礼します」
 何を言ってるんだ…?
 呆然とする渋沢を無表情に一瞥すると、誠一は何の戸惑いもなしに背を向けた。
 椅子を離れ、デスクを通り越し、社長室の扉へゆっくりと向かっていく背中をなすすべもなく見やりながら、渋沢は途方にくれた。放り出された熱は、決して冷めることをしらず身体の中で暴れまわっている。渋沢は身じろぎをする。そのせいで性器の先端が椅子の肘にあたり、小さく息を吐き出した。堪えられない疼きが這い上がってきて、渋沢は不意に恐怖を感じた。
 そしておそれは、誠一の背中にぴたりと重なる。
 ―――恐怖した。
 本当にこのまま置き去りにされるということを。
 そしてこのまま、永遠に彼は帰ってこないのではないかということを。
 恐怖は急速に全身を覆いつくして、泣き出しそうなほどの絶望を感じた。
 誠一がドアの前で立ち止まる。ノブをつかむ、そして、

 い な く な る。

 頭に浮かんだその言葉に、瞬間、だめだ、と思った。それは関係性のなくなることを意味していた。それはだめだ、それだけはだめだ。
「藤代さんっ…!」
 呼び止めた声は、悲痛だった。誠一は全ての動作を停止させる。
「なにか」
 振り返らずに、感情のない返事をよこす。
 渋沢は一瞬躊躇して、けれど恐怖に背中を押されて言葉を発する。ひどく急いていた。口から出た音は、か細く擦れた声だった。
「……いかないでください」
「…へえ」
 誠一がそこで、ようやく振り向く。
「それは、ようするに嫌じゃないから続きをやってくださいってこと?」
 ゆっくりと腕をくみながら、渋沢に嘲笑を浮かべた視線を送る。渋沢はそれに唇を固くかむと、搾り出すような声ではい、とうなずいた。
 誠一は一瞬目を細めてから、見せ付けるように鼻で笑った。そしてゆっくりと渋沢のほうへ足を向ける。
「しぶさわあ、いまさら前言撤回はないよなあ。お前なにさま?」
 不機嫌そうに呟いた誠一の言葉に背筋がこわばって、振るえた身体が椅子をきしませた。
「なあ?」
 口元に笑み浮かべ、しかし合った視線は殺されるような鋭さで、渋沢はおびえたように身体をすくませた。
 誠一がやがて再び渋沢の手の届く場所に戻る。
「なあ?」
「ぐっ…!」
 前触れもなく剥き出しの性器を力任せに握られ、その激痛に一瞬気が遠くなる。
「うっ…あっ、すみませんでしたっ…」

 

 一度踏み外すと、転げ落ちるのは容易だった。あえなく暴虐に膝を折ると、誠一はひどく満足そうに微笑んだ。そして再び身体を満たす熱の中で、渋沢は彼にしがみつくことだけに熱中する。

 関係性にしがみつくことだけに、熱中した。

 

 

(Fin. 2006.02.26発行/無料配布本再録)