9.新学期
いつのまにか
北風が容赦なくふきつける。
私は真一文字に口をむすんだまま、できるだけ顔に風があたらないようにと、ぐっとマフラーに顔をうずめた。そして気休め程度に下をむく。風が目にしみて、涙がにじんで、踏みしめる砂利道がゆらりと歪んだ。それでも、何かに憑かれたようにただひたすら早足で道をいそぐ。
太陽は西に傾き、薄暗い紺色が静かに辺りを侵食しはじめていた。
例えばこれが学期中であったなら、こんなひっそりしていることもなかったかもしれない。けれども現実のはなし始業式は3日後で、いくら寮が開いているからといって帰ってきている生徒はほとんどいない。…私だって、その必要がなかったら冬休みギリギリまで自宅でぬくぬくとしていただろう。しかしそうもいかないのが今年の私。これも寮委員という、誰も率先してやりたがらないような仕事をひきうけてしまった結果というわけだ。(というか、じゃんけんに負けてしまったのがそもそもの原因だった)。寮委員が不人気なのは、その仕事のほとんどが雑用ばかりという地味な仕事だから。しかもそのくせ、週に1回は話し合いがあったり、こうやって学期が始まって学生が寮に本格的に帰ってくる少し前に集まって、色々な確認や準備をしなきゃいけない、なんていうオプションもついてくる。運動部のひとはさぞ大変なことだろう。というか両立はできるもんじゃない気がする。なんせ出席率だけみてみても相当悪いのだから。
ともかくも私は新年の初会議が開かれるはずの、男子棟の方にある、会議室に向かっていた。
うちの学校はハタからみたら共学かもしれない。けれど、内実は男女別々で、しかも例外を除き男女のテリトリー不可侵という暗黙のルールまで存在している。つまりやたらめったらフェンスの向こう側をウロウロすることはできない、ということだ。生徒ならまだしも、先生に見つかろう物なら面倒くさいことになる。
寮委員はもちろんのこと「例外」に含まれるわけだけれど、でも多少の後ろめたさはあるわけで。だから多分そのことが、早足によけい拍車をかける。
続いていた砂利道がコンクリートにかわった時に、ちらりと横目でみた右手方向は、人っ子一人いないグラウンドだった。ほんの少し物寂しさが助長されて、私はさっさと足をすすめた。
――――――けれど、ちょうど真ん中辺りまできた時だった。
なぜだか唐突に、空を見たい、という衝動が胸の底からわきあがってきて、私はゆっくりと立ち止まった。しばらくの間うつむいたままその唐突に湧き上がってきた感情と葛藤した後、私はとうとう顔をあげた。
風が、正面から吹きつけてきて、私は思わず目を閉じた。
マフラーから顔をあげたことでできてしまった隙間から、冷たい風が首とマフラーの隙間を通って肌をつたった。
ブルリ、と震えてそれから、私はそっと目をあけた。
瞬間、胸がぎゅっと締め付けられる感覚に、私は息をつめた。
ひきつけられる、視線。ひきこまれる、その色彩。
目前に広がるのは、桃色と紫のグラデーション、夕日をやわらかい桃色に反射した雲、それから薄い桃色と深い紺色の対比。
モノクロの砂利道ばかり見ながら歩いていた目に、突然色彩がよみがえったような感覚に陥って、その不安定さに私はよろめいた。カラスがまるで大海を泳ぐ鯨のように、悠々と空を横切っていく。潤んだ瞳は、その光景にキラキラとフィルターをかけた。
見上げていた視線をわずかに下に降ろしたのは、その時何かを打つような音が聞こえたからだった。
フェンスの向こうの、緑色の芝生が広がるグラウンド。
夕暮れの空を背景に、芝生の上に長い陰を落とすサッカーゴール。
点々と転がるボール。
そしてその間をいったりきたりする、黒い、黒い影。
誰もいないと思っていたはずのグラウンドで、誰かが、ひとり黙々とゴールに向かってボールを蹴っていた。蹴り上げるその度に、音が、風にのって届いてくる。
目を奪われたのは、そのコントラスト。
目が離せなかったのは、そのひとの、背中。
桃色と紫のグラデーションが、陰の黒さを助長する。
涙のフィルターは、それをいっそう輝かせた。
一心にボールを蹴るその背中から、ゴールネットを揺らす度にゆれるその背中から、私は魅せられたように目を離せなかった。
まるで、そう、どこか違う世界からそっくりくりぬかれてきたような、その光景に。
夕暮れの空に吸い込まれていくような幻覚を覚えて、私は長いあいだ瞬きもせずにその背中に見入っていた。
それが三上だ、ということに気付いたのは、ゴールポストにあたって跳ね返ったボールが、大きく三上の頭上を超えてハーフラインあたり、つまり私の目の前まで、転がってきた時だった。体をねじるようにしてボールの軌跡を目で追いながら、三上はこちらをふりむいた。いや正確には、ボールを、振り向いた。それだけのことだったはずが、予想外のもの、つまり私、をボールの向こうにみつけてしまって、ぎょっとしたに違いない。体がいっしゅん強張るのが、この距離からでもはっきりとわかった。もちろん、私自身もまさか見つかるとは万に一つも思っていなかったから、目があったその時、思わずビクリと肩がはねた。
ぎょっとした理由は、それだけじゃない。私をみつけて目が見開かれるその一瞬前、私が知っている三上からは想像がつかない、思わず背筋が冷たくなるような鋭い視線に射すくめられたからだ。それはごくごく一瞬のことだったのだけれど、私はしかっり見てしまった。そしてそれは、頭にしっかりとやきついて離れなかった。
それは明らかに、私の知らない三上だった。もちろん、もともとそんなに知っているわけではない。ないのだけれど、あまりにもギャップがありすぎたのだ、あの餅つきの時や初詣の時の三上に比べると。
夕日に照らされたあの背中も、それは例外のことではなくて。
私は多分恐ろしく動顛していた。だって、あの背中に一瞬でも憧れを抱いてしまったのだから。
それが、他でもない
―――――――三上、だったのだから。
「…なにしてんだよ」
無言で芝生を蹴って歩いてきた三上は、ボールを取り上げながらこちらを見ずに言った。言葉に小さなトゲがあって、私はそこでようやく、見てはいけなかったのだ、という事を悟る。
今更悟ったところで、事態は悪化する一方なのだけれど。
「ご、めん。ちょっと通り過ぎて、…えと、ちょっと足を止めてしまっただけなんだけど…」
気圧されて、思わず言い訳をしてしまう。
頭の中が真っ白になっていた。
「なんで謝るんだっつの、なんでここにいるか聞いてるだけだろ」
三上がいらいらした口調で言った。そしてボールを持って立ち上がる。
「あ、や、そっか、はは…寮委員でね…」
何か喋れば喋るほど、墓穴を掘る気がした。早くこの場から逃げ出したい、という気持ち一心に、私は後ずさりした。
けれど私の言葉に、三上がさっと振り返ったのだ。
初めてあった目は、さっきのドキリとするほどの鋭さはなくて、反射的に身構えた私は思わずほっとした。
「なに、お前寮委員なのかよ?」
「…うん、そう、だけど」
わざわざ聞き返す三上の真意がつかめなくて、私は注意深く肯定した。
「まじかよ。知らなかった、…つーか、俺が行ってねえからか…」
三上がブツブツと呟いた。
私はその言葉の文字列から、ある仮定が頭に浮かんでしまって、おそるおそる尋ねた。
「え、ねえ…もしかして、三上も寮委員なの…?」
「まあな」
「ええッ!?まじですか?私一回もみたことないですけど…!」
「失礼なやつだな、一回くらい行ったことあるっつーの」
「いやそれ自慢になってないから」
「…つーかなに、これから寮委員あんの?」
「そうだよ、知らないわけ?」
私は未だドキドキ波打つ心臓に気付かないふりをしながら、あきれた声でいった。
「うっせーよ。…おまえ、ちょっとまってろ。着替えてくるから」
「は?なにいって…」
意図がつかめなくて、私は面食らう。
言い捨てて走り去ろうとする三上に、慌てて静止の声をあげたら、三上が一瞬振り向いて、それから大声で言った。
「いいから!まってろよ!」
三上の背中が、1トーン暗くなったグラウンドの向こうに溶け込んだ。私は、自分でもおかしいと思いながらも、その背中から目を離せないでいた。
桃色がじんわりと闇に侵食されはじめたころ、三上は再び現われた。
「あ、ほんとにまってるし」
自分で言っておいて失礼なことをいうから、私は返事のかわりに睨み返した。
「…んな睨むなよ、悪かったって」
「思ってもないのに謝らないでください」
思わず口調がトゲトゲしくなるのは、現われた三上がまったく普段どおりの彼だったから、だ。
それにほっとするよりも先に私の心に生まれたのは、悔しい気持ち。
なんで私はこんな奴に見とれていたんだろう?という、ただただ悔しい気持ちだけが私を満たした。
「思ってる、っつの。んな怒るなって」
「べつに、怒ってないです」
私はできるだけ三上と離れたくて、早歩きをしながら早口でいった。
「つーかさ、」
それとは対照的に、やたら間延びした三上の声が背後から聞こえた。
「お前怒った時、ですます口調になるよな」
クククッ、と耐え切れずにもらした笑い声が聞こえてきて、私は思わずカーッとなった。
(さいってい!なんだって私はこんなやつに…!)
ばっと勢いよく振り返る。そして、怒鳴ろうと口いっぱい息をすいこんだ。
「うっさ………い、よ…」
けれど振り返ったその向こう。信じられないものを見てしまって、私は硬直した。冷たい風のむこう、
三上が静かに、微笑んで、いた……、のだ。
(なに、なんなの!)
沸点に到達していた私の血液は一気に温度を下げた。その温度差のせいで、私はクラッとした。
「?」
「き、き、きもいからこっち見ないで下さい…」
「…てめ、」
めまいがする。
心がグチャグチャになって、まるで遊園地のコーヒーカップのように私の内側でグルグルとまわる。
夕日 グラウンド サッカーボール 背中 視線 緊張 指のさき 闇 冷たい風 黒い髪 その、笑顔
加速度が増す。遠心力で飛び出しそうになる私は、必死で中心にしがみつく。
それでも回し続ける、ただひたすらコーヒーカップを回し続ける。
憎まれ口 身長 太陽 雲 フェンス ユニフォーム マフラーの匂い 髪をかきあげるその手 あきれた顔
めまいがする。
コーヒーカップを回す手を止めないのは、そう、止めてしまえば答えがわかってしまう気がして、私はこわかったのだ。
そう、こわかったのだ。
ただ、こわかったのだ。
いっそ、振り落とされたほうがましだと思った。
いつのまにか日は落ちて、夕焼けの攻防戦は闇が完全に勝利をおさめた事を知る。
夜の闇の間に、校舎の窓からもれる光と、外灯のあかりが悲しいほど優しく辺りを照らしていた。
新学期はあと3日向こうに、立ち止まっている。