First
Contact 1
それは憧れというよりも、むしろ盲目的な情愛に似ていた。
初めて藤代誠一を見たのは、まだ三上が小学生だったころ、武蔵森のサッカー部を見学しにやってきた時のことだった。当時まだ2年生だった藤代先輩は、けれどまるで当然のように10番を背負っていて、そして誰よりもそれが似合っていた。彼を起点に繰り出される多彩な攻撃に、どこで味わった事もない体の底から湧きあがるような興奮を感じたものだった。
そしてそれは、中学生になった今でも続いている。いや、きっと、それよりももっと強く。
藤代誠一なしの武蔵森サッカー部はありえない、と思う。
彼がそこにいないのならいっそ、サッカーをやめてしまった方がいい。
「…腹減った」
就寝1時間前。空腹感を感じて、三上は食糧が収納されている引き出しを開けた。ガサガサと漁った結果、この間奮発して買った高めのカップラーメンしか残っていない事を知って小さくため息をついた。なんとなくまだもう少しもったいぶっていたい気分だったのに、とカップ麺片手にしばらく悩んで、けれど結局のところ空腹感が勝利する。表面のビニールを乱暴にはぎとって、2階にある給湯室に向かうべく部屋を出た。
しまった、と思ったのは、給湯室の中を確認もせずにドアをあけてしまった後だった。
キィ、と金属の軋む音がして、廊下と給湯室を隔てているドアを開くと、そこには先客がいた。それだけでまず、ギクリとした。この給湯室は3年生の部屋がある階にあり、その上全寮生共用の場所なので、先輩と遭遇する可能性が一番大きい場所だということをすっかり空腹にまかせて失念していた。
しかし一度入ってしまったものを、引き返すことなど簡単にできるわけがない。相手がこちらに気付いてしまったら、なおさらのこと。
「こんちわっす」
仕方なく頭を下げて、顔を上げたその時、再びギクリとした。
というよりも、衝撃に近かった。心臓が一瞬止まりかけるほどの。
あの、憧れてやまない藤代誠一が、三上を一瞥すると、緩慢な動作で僅かに首を振った。
危うく取り落としそうになったカップラーメンを三上は慌てて握り締めた。
いくらチームメイトとはいえ、相手は3年で一軍、しかもその主要人物である。サッカー部に入ってから間もない三上が、こんな至近距離で対峙することや、ましてや言葉を交わすことなどあるはずもない。
それが今、自分から3メートルもない場所で給湯器の前でカップ麺片手に、熱湯が出てくるのをじっと待っている。
心拍数が唐突に上がるのを自覚する。
三上から興味なさそうに視線を外しかけた誠一が、不意に何かを思い立ったかのようにくるりと身体ごと振り返った。
「お前、名前は?」
上から下までなめ回すようなぶしつけな視線にさらされて、三上は思わずブルリと身体をふるわせた。
「…い、1年の三上です」
緊張で乾いた喉の奥から、掠れる声を絞り出した。遠慮のない視線を見返すことはできなくて、足下に視線を落とす。名前を尋ねられたというその事よりも、緊張感が三上を支配する。震える両手に、しっかりしろ、と心の中で叱咤した。
「三上…ね、…なあ、ラーメン交換しねえ?」
予想していなかった言葉に、三上は思わず「はあ?」と落としていた視線をあげた。そしてしまった、と思って慌てて訂正する。
「…す、すんません、え〜と?」
誠一は何か面白いものでも見るように三上を眺めて楽しそうに笑うと、
「それと、これ、交換しねえ?」
と言って片手にもっていたカップ麺をカサカサと音をたてて振った。
条件反射で頷きかけて、寸での所で固まった。誠一の手の中にあるラーメンのパッケージが、目に入ってしまったからだ。安売りでよくみかけるようなそのラーメンと三上がもっているラーメンとは、正直なところランクで言えば一軍と三軍ほどの違いがあった。いくら先輩の要求とはいえ、なけなしのこずかいを叩いて買ったラーメンである。そうやすやすと諾とはいえない。しかし、相手はただの先輩ではなく藤代先輩で、ある。
戸惑っている三上を見て、誠一が苦笑する。
「そんな悩むなよ、嫌ならいいよ、別に」
微かな苛立ちを含ませたその声音に、背筋に冷や汗がつたった。
素直に交換するべきだ、とは思っていた。ラーメンごときで憧れの先輩に悪印象を植え付けるのはどう考えたって利口な話じゃない。けれど、「はい」のたったその一言がでてこないのは、どうしたことか。くだらない意地の、習い性というものなのだとしたらそれこそくだらなさすぎる。
キィというドアが開く音に、三上は我に帰った。誠一がラーメンにお湯を入れ終えて、今まさに給湯室を出て行こうとしているところだった。瞬間、頭が真っ白になった。
「先輩、何でもしますから!」
廊下に足を踏み出しかけた誠一が、一瞬その場に停止する。それを見て初めて、三上はしまった、と思った。汗がどっと流れだす。
「は?」
そして次の瞬間ゆっくりと振り返った誠一を見て、後にひけなくなったことを自覚した。
「あ、あの、えーと…、ラーメンは交換できないっすけど、他のことならなんでも…します、から」
何を言ってるんだ、と出来る事なら逃げ出したい衝動を押し殺すために、三上はてのひらをぎゅっと握り締めた。冷房設備のない給湯室は、換気扇のない風呂場のように蒸しかえっていて、息苦しい。
「…おまえ、おもしろいな」
目を丸くして、言葉のとおり誠一が笑った。
けれどその視線にいたたまれなくなって、三上はうつむいた。
「別にそんな怒ってなかったけど、まあいっか。…なんでもやってくれんの?」
なんでも、という言葉のおそろしさに、三上は一瞬躊躇する。
「…はい」
「なんでも?」
「はい、なんでも」
もうどうにでもなれ、としつこく重ねる誠一に捨て身で頷いた。
「う〜ん、そんじゃ…」
誠一の言葉に、条件反射で身体がこわばる。予想がつかない相手にこんなことを言うもんじゃない、三上は言い出した自分に今更ながら後悔を覚えた。
「そんじゃ、オナニーして」
「………はい?」
予想だにしていなかったその単語と、状況に三上は思わず意味を解しかねて聞き返した。
「なんでもやってくれるんでしょ?ちょっと前から気になってたんだよね、男相手に発情するもんなのかって」
「…えっと、」
「やって、オナニー」
有無を言わさぬ語気と、射すくめるような視線に三上は小さく後ずさった。申し出を拒否するということは、一度ならず二度目は決して許されないのだろうという事を本能的に察知する。拒否するという選択枠はそこにはなくて、三上は最後のあがきをする。
「ここで、ですか?」
「そう、ここで」
ガチャリ、と誠一の背後でドアの鍵がかかる音がして、三上は泣き出しそうになった。
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