雨が窓を叩く音に気付いて、は顔をあげた。
「…あ、雨だ」
誰にともなくそう呟いたら、お母さんがあっ、と小さな悲鳴をあげて大慌てでリビングを出て行く。この分ではもう洗濯物は手遅れだろう。窓を伝い落ちる水滴を眺めながら、他人事の様に思った。
夕立はいつも突然に来、そして瞬きする間にもう去ってしまう。
まるであっちゃんのようだと、また他人事の様に思った。
夏の宵、空を望んで(二)
20040803
雨が小ぶりになり始めた頃、ソファに座ってTVをぼーっと眺めていたの傍らで、着信を知らせる小さな振動がした。TVから視線をはなさずに、手だけでどこかソファの上にあるはずの携帯を探す。しばらくして冷たい無機質な感触が人差し指にして、それを伝い寄せて手のひらで掴んだ。そしてそのまま目の前にもってくると、そこでようやく視線をTVから携帯に移した。カチッという音をたてて携帯を開く。
「…あっちゃん?」
ディスプレイから目に飛び込んできた、その名前が一瞬信じられなくて何度も瞬きをした。確実に高まる胸の鼓動と、しかしそれに比例して広がる不安を同時に覚える。確かに携帯の番号は教えてあった。けれど、…なんだろう?開けばわかることなのに、あらかじめ何か予想をつけておいて開かないと、どうも落ち着けない性質なのだ、開いた時のショックを和らげる何か保険をつけなければ。は深呼吸した。何も思い当たる節はない。ほう、っと息をつく。
「…ばか」
ばか、私。ここは多分、素直に喜ぶ場面だ。あっちゃんから初めてのメールだ、と喜ぶ場面だ。は自分に言い聞かせて、ボタンを強引に押し込むようにしてメールを開いた。
メールは、思ったよりも短かった。は一回黙読したあと、それを確かめるように音読してみる。
「今週の土曜、学校の近くで花火大会があるんだけど、花火見たくね?」
もしかして、…誘われてる?少しだけ遠まわしなその言い方に、は苦笑した。それから、どうしよう、と思った。
行きたくないのか、と言われたら嘘になる。というより正直に言えば、花火大会にも行きたいし、あっちゃんにも会いたいのだ。あっちゃんが学校に帰ってから、もうすぐ1週間がたつ。これを逃してしまえば、きっともう冬まで会えないだろう。でもそんなことより何より、あっちゃんが誘ってくれた事が純粋にうれしかった。だけど、だけども。これに、あっちゃんの好意に、甘えてしまっていいのか、という迷いが私の中にはある。今更どうがんばって穴を埋めたところで、昔の私とあっちゃんには戻れないのだ、第一生活する場が違う。いいのではないか、と思うのだ。一年に数回会ってふざけ合う、幼馴染という関係のままで。私はそれ以上を望まない。そうすれば、私達の生活は今までと変わらず、年に何回かの楽しみが増える、ただそれだけのことになる。そんなに喜ばしいことはないではないか。
変わることを恐れる私は多分臆病なだけなのだろうけれど、でも今更それを変えようとは思わない。多分、花火大会には行かないほうがいい。いってしまったら何かが崩れるという予感がする。
ようやく固まり始めた思考をまとめて、はぎゅっと携帯を握り直した。言い訳は、お母さんが夜遅くなるとうるさいから、それにしよう。はよし、と呟くと返信のメールを打ち始めた。
書き上げて、何度も読み返して、多少の罪悪感と後ろめたさが残る指で送信ボタンを押した。間髪入れずに現われたメールを送信しましたの文字に軽い虚無感を覚えてはソファに体を埋めた。
それからどれくらいたっただろう、不意に電話のベルの音がけたたましく家の中に響いて、は飛び起きた。突然の大きな電話の音に心臓がドキドキする。まるでたった今全力疾走で100メートルを走ってきたかのように息があがる。…これだから電話の音は嫌いだ、は電話機を憎憎しげに見やった。しばらくして電話の音が途切れる。二階でバタバタと足音が聞こえたところからして、多分お母さんが電話をとったのだろう。は胸のドキドキをはきだすかの様に大きくため息をついた。
やがて階段をバタバタと降りてくるお母さんの足音が聞こえた。そういえば洗濯物は間に合ったのだろうか。はお母さんがリビングの戸をあけるタイミングを計って、話し掛けた。
「誰から電話ー?」
「あっちゃんよ」
「え…?」
は眉をひそめたまま、それを隠そうともせずお母さんを振り返った。
「に電話代わってって、さ」
手にもった子機をに差し出しながらお母さんが言った。子機を持ってこなくたっていいのに、何かに当りたくなって理不尽な文句を思った。けれども口には結局出さずに、は複雑な気持ちで子機を受け取った。
「…ありがとう」
そしてそのままリビングを横切る。とりあえず自分の部屋に行こうと思ったのだ。リビングの戸に手をかけたとき、お母さんが知ってか知らずか、
「あ、それから行って来なさいよ、花火大会」
と、追い討ちをかけるようなことを言った。
は返事をせずに、リビングを半分よろめきながら出て、階段をあがって、自分の部屋に向かった。その間、頭で色々なことをグルグル考える。お母さんの許可が出てしまった以上、どんな言い訳があるだろう。あっちゃんは昔と違って一筋縄ではいかないようだ。あっちゃんと直接話して果たして、断れるのだろうか……
「…もしもし」
部屋に入って、ベッドの上にどさっと腰掛けると保留ボタンを押して保留を解除した。間髪いれずに、
「おう、?」
と、耳元で声がした。緊張も一瞬、その一声で解かれてしまっては脱力したようにベッドに横たわった。
「…うん」
『花火大会、おばさん行っていいってさ』
「…うん」
『どうする?』
「……」
『ああ、別にお前が来たくねぇなら来なくても全然いいから、無理すんなよ』
あっちゃんが電話の向こうで言った。こんなことを言いつつ、もし私が行きたくない、といったらこの人はひどく落ち込むのだろう。小さいころ、嫌な事があるたびにこんな事はなんでもない、と笑いつつ、陰でこっそり泣いていた彼を思い出して、は胸がちくりと痛むのをかんじた。
「なんで、誘ってくれるの?」
電話口の相手の、言葉が一瞬詰まるのが雰囲気でわかった。
『…お前は覚えてないかもしんねえけど、前に一度花火一緒に見に行く約束して、結局行けなかったことを、花火大会のチラシみて思いだしたんだよ。それだけで、別に深い意味ねえから』
だから、別に無理しなくてもいんだぜ、とあっちゃんはもう一度繰り返した。きっとこの人は今、私を誘った事を猛烈に後悔しているのだろう。正直なところ、そんな約束は覚えていなかった。だからそれが本当なのか嘘なのかはわからなかった。けれど、多分人によって心の中に刻まれる思い出というのは違うのだ、だって自分が小さいころ起こった全ての出来事を覚えているとは思わない。例えば七夕の出来事だって、にとっては大事な思い出でもあっちゃんにとっては忘れてしまった過去かもしれない。それは寂しいことだけれど、悲しいことではないのだ、決して。だとしたら、この花火大会に行って何かが悪い方向に変わったとしてもそれは、寂しいことかもしれないけれど、悲しいことではないのだ、きっと。
「いいよ、行く。行くよ、あっちゃん」
は自分の顔が自然にほころぶのを感じた。夏休みなのだ、少しくらい楽しいことがあってもバチはあたらないだろう。は言い訳の様に、心の中で呟いた。
『…まじ?』
「うん、まじ」
『別に無理…」
「してないよ、じゃあ、土曜日に」
この後に及んで同じ言葉を繰り返す幼馴染の言葉を遮るように言うと、は強引に電話を切った。
突然、セミの大合唱が始まって、雨があがったことを知る。
ベッドから立ち上がって閉じたままだったカーテンを開くと、今まさに太陽が山の向こうに沈もうとしているところだった。
土曜日は、夕立が降らないといい。
オレンジ色が紺色にのみこまれようとしているその空を見上げて、は思った。
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