そうえいば今日は、夕立が降らない。
空を見上げて、つい癖でそんなことを思った。しかし決して降るのを望んでいるわけではなく、ただここ数日続いた夕立になれてしまって、ない事がなんだか不思議にかんじる、ただそれだけの事。
今日は、夕立が降らない。
今度はほっと息をついて、打ち水で湿ったアスファルトを踏みながら、三上は建物の陰に見え始めた駅の看板を目で追った。
夏の宵、空を望んで(三)
20040809
待ち合わせには少し早い。花火大会があるせいか、いつもよりも人がごったがえす駅の喧騒の中で、三上は近くにあった柱に身を持たせかけた。ひんやりとした柱の冷たさが、汗で湿ったTシャツを通りこして肌にゆっくりと伝わる。通りすぎる人々をぼんやりとながめながら、俺も行く、と言い張って聞かなかった藤代や、行くとは言わなったが一緒に来たそうな顔をして自分を送り出した渋沢を思い出して、クククッと小さく笑った。行き交う人々は、無論そんな三上に目もくれず通り過ぎていく。
―――行き交う人々、柱の位置、改札の配置、あの広告。
「…あ」
突然、駅の光景が三上の中の忘れていた何かを刺激して、はっとした。そういえば、この駅でと会うのは、これが初めてではない。これが…2回目、いや3回目か。どうして忘れていたのだろう。いやきっと、忘れていたのではなくて、忘れようとしていたのだ、故意に。あの日の思い出は、どちらかといえば良い思い出などではないのだから。…特に、2回目は。
その時改札から大勢の人が溢れ出てくるのを目の端で捕らえて、反射的に時計に目をやった。18時ジャスト。あいつの性格だ、この電車にのっているに違いない。基本的におおざっぱなくせに変なところで几帳面だった幼馴染を思い出して、思わず顔が緩んだ。
案の定、人ごみの向こうに少し不安そうにキョロキョロしながら歩いてくるを見つけるまで、そう時間はかからなかった。けれど三上はの着ている薄い黄色のワンピースを認めて、少しだけがっかりする。期待していたわけではない。そうではないのだけれど、もしかしたら、もしかしたら浴衣姿が見れるかもしれない、と少しだけ思っていたのだ。軽い失望を抱えて、けれどもそれを上回る昂揚感と共に、三上は喧騒に足を踏み入れた。
「!」
黄色のワンピースの裾がふわりと舞って、がこちらを振り返った。
「…あっちゃん」
少しの間の後、ほっと笑ってが足早に近寄ってきた。
「もしかして、遅れた?私」
「いや、ぴったし」
「よかった」
の顔を見てうん、と頷いたら、言葉が続かなくなって変な沈黙が流れる。何か言おうと思って口を開きかけたら、あっとが小さく声をあげた。
「これ、あっちゃんのおばさんに言付かってきたの」
と、手に持っていた紙袋を差し出した。
「おう、サンキュ」
の手からその紙袋を受け取ると、人の波に流されるようにして二人は歩き始めた。
「良かったね、雨ふらなくて」
「当然だろ。普段の行いがいいからな、俺の」
「え、それはない」
「うわムカツクねこいつ」
軽く頭をこずくつもりで触れた髪の毛が柔らかくて、その感触に少しどきりとした。どうして、これだけのことで。三上は楽しそうに笑うの顔を横目でみながら、右手に下げていた紙袋を左手に持ちかえた。
「っつーか人多すぎ、はぐれんなよ」
「そっちこそ」
道で配っていてもらったうちわを仰ぎながら、涼しい顔で言い返されて三上は思わず苦笑する。これでははぐれないように、と手を繋ぐなんてことは万に一つもなさそうだ。
人の波に流されるまま歩いてると、だんだん道の両側に夜店がポツポツと現われはじめた。心なしか、足取りも軽くなる。
「あ、そうだ。あっちゃんのおばさんに、お小遣いもらっちゃった。お祭のお小遣い」
「まじ?きっまえいー…てか俺にはくれねえのか?」
「うん、いーでしょー」
「……」
「かわいそうに」
「…同情するならカネヲクレ」
「うそだよ、あっちゃんと二人で使うようにもらってきた」
「…はっ、テメ!」
「あ!みてみて!金魚すくーい!」
「話そらすなよ…!」
というか、むしろ聞いてない。半ば強制的にに引きずられる様に金魚すくいの屋台の下までつれてこられて、三上はため息をつく。明らかにテンションが高くなってやがる、こいつ。女っていうのは、これだから。あきらかにいつもよりテンションが違う自分を棚にあげて、三上は思った。
「はい!」
「や、はい、って、何、俺もやんのかよ!?」
「うん、もちろん」
にっこりと薄い膜の張られたタモ(これをポイ、というらしい)と器を渡されて、三上は仕方なくそれをうけとるとの隣にしゃがみこんだ。
「おまえさ、開いてるぞ…口」
「う、うるさい!真剣なんだから話し掛けないで!」
「……あ」
「…あ?」
「……てへ」
「…あっちゃん、まだ初めて1分もたってないんですけど」
「うるせえ、だから俺金魚すくい苦手なんだ、っつっただろ!」
「聞いてない聞いてない…あ」
「…あ」
「あーーーー!あっちゃんのせいでやぶれちゃったじゃん!」
「いや、違うだろ!バカかお前!あきらかにお前、自分のせいだろそれ…!」
三上は破れたタモを見つめて口を尖らせるを見ながら、きっと渋沢だったら華麗に金魚をすくって見せるに違いない、なんて事をうっすらと思った。金魚すくい屋のおっちゃんから、破れたタモと何もはいっていない器と交換で金魚を一匹ずつもらった。はしばらく嬉しそうにその金魚を眺めながら歩いていたけれど、それも長くはもたなかった。
「わたがし食べたーい!」
「ああ、食え、食え、どんどん食え」
止めても無駄だということに気付いた三上は、にひっぱられるままにまかせた。こんな調子でこの縁日を進んでいったら、花火が終わっちまうぞ、と心の中で文句を言いつつ、この状況を少なからず楽しんでいる自分をかんじて苦笑した。ぎゃあぎゃあ、と二人で言い合うただそれだけのことに、少なからず幸福をかんじてしまうなんて。けれど、際限なしにどんどん増えて行く腕の中のお面やらカキ氷やら焼きソバやら変なぬいぐるみやらに、だんだん恐怖をかんじてきて、を呼び止めた。
「おい、もう十分だろ」
「えー…」
「花火はじま」
花火始まるぞ、と言いかけて、けれどその時背後で自分の名前を呼ぶ聞きなれた馬鹿でかい声が聞こえて、強引にかき消されてしまった。
「三上せんぱーい!」
振り向かなくてもわかる、この声の主。三上は一瞬ギクリとして、我しらず苦い表情になる。なぜかイタズラをしていた場面を目撃された小学生のようだ。ばつが、悪い。に持たされて両手いっぱいの縁日の品々を抱えて、三上は思った。
「あっちゃん…」
隣を歩いていたが、立ち止まって三上のTシャツの袖を軽くひっぱった。反射的にに視線を送ると、「いいの?なんか呼ばれてるよ」と言葉には出さず、でも表情でそう言っているのがわかった。三上はわざとため息を吐いてみせると、これじゃ無視できないじゃねえか、いよいよ苦い表情になって足を止めた。
「無視するなんてひどいっス!」
口を尖らせたドラ江もんが、藤代の声で言った。
「…俺は耳が悪いんだよ、耳がよくなる道具だしてください馬鹿えもん」
三上が言うと、かけていたドラ江もんのお面をはずして、藤代がいたずらっ子そのものの顔で笑った。
「仕方ないなあ、ぬび太くん。耳よくな〜る〜!はい」
「だーれがぬび太だテメェ!つーかこれ、ただの耳掻きじゃねえか、なめてんのか!」
「仕方ないなあ、ぬび太くんはわがままなんだから〜」
「…ほっほお〜言ってくれるじゃねえか、せいじくーん」
藤代の胸倉を掴もうとして、けれど両手の品々に気付いて愕然とした。…これじゃあ、手が自由にならねぇじゃねえか!
「…三上、楽しそうだな」
黙って三上と藤代のやりとりを見ていた渋沢が、笑いをかみ殺した声で口をはさんだ。ちくしょう、三上は渋沢の背後でたこ焼きを口に押し込んでいる中西、近藤、それにヨーヨーをもてあそんでいる笠井に目をやると、なんだかやりきれない気分になって、チッと小さく舌打ちした。
「それで…」
渋沢が意味ありげな視線を送ってきて、そしてその視線が自分の隣に動くのを認めて、三上は観念した。渋沢の言葉に、その場にいた全員がの方に視線をむけたから。
「、俺のおさななじみ」
できるだけ誰とも視線を合わせないようにして、を指差して言った。
「こいつらは…学校のダチ」
今度はと目を合わせて、おおざっぱな紹介をする。がよろしく、と小さな声で言った。
「あ、ひどいッス先輩!ちゃんと名前紹介してくださいよ!」
「あー、うっせぇなー!これが藤代、笠井、近藤、中西、辰巳、渋沢!どうだ!」
「あ、ひどい三上くん。親友をその他大勢と同じように紹介するなんて!」
「はっ、近藤お前キモイ」
わ、ショック…!とのた打ち回る近藤を無視して、三上はの背中を軽く押した。行くぞ、とにしか聞こえないように耳打ちして。
「じゃーな」
これ以上こいつらにかまっていたら、せっかくの貴重な時間を無駄にしてしまう。素早く身を翻してその場を後にしようとしたら、わっとブーイングが起こった。今にもこちらにとびかかってきそうな奴等を軽くおさえながら、渋沢が言った。
「門限は気にするな。ただ、明日の試合に差し支えない程度に、な」
渋沢の含み笑いが少しだけ癪に障ったけれど、気付かないふりをして足早に花火会場に向かった。
「…何わらってんだよ、さっきから」
渋沢達と別れてから、ずっとクスクス笑っているに、三上は眉をひそめた。
「だって、何かおかしくって…あは」
「何が」
「…だってさ、あんなあっちゃん初めてみたから。あはは!」
「……」
一体どんな、俺。聞きたかったけれど、聞きたくない気持ちの方が強くて三上はただ黙って時計を見た。19時、10分前。あと10分で花火が打ち上げられる。人、人、人で埋まる川原の土手の一角に紛れて二人も腰をおろした。直に座った地面に生える芝の感触が、匂いが、そっと二人を包んでいる。風は、生暖かい。ただ、時折涼しい風が川を横切ってふいてくる。
「でもさ、…楽しそうだね」
三上は、はっとしてを見た。言葉の裏側に、何か他の意味がある気がしたのだ。決して勘ではなくて、の表情と、その言葉の抑揚から導かれる、多分たしかなこと。
「…あ、別に、そういうことじゃないよ」
三上の視線に気づいて、が慌てて言った。けれど三上が”そういうこと”を考えているのだとわかってしまっている時点で、少なくとも自身も”そういうこと”について少しでも考えていたのだ、という事が三上にはわかってしまう。だって、全く考えてもいないことを、相手が心配そうに覗き込んだからといって彼が何を考えているのか、わかるものではないのだ。人の心というのは、そういうものではない。簡単に意思疎通できるほど、安易なものではない。
「謝らないで」
思わず謝りかけた三上に、けれどそれを遮るようにがぴしゃりと言った。
「何で、俺が謝んだよ」
言葉を発する前にそれを遮られて、出口のなくなった言葉が、思ってもいなかった言葉になって口をついて出た。
「そう、別にあっちゃんのせいじゃない、誰のせいでもない私自身の問題…それに、本当にそういうことじゃないの。ただ、あの駅に降りたとき、駅の光景、2年前と変わらない広告を見て、記憶が再生しただけ、ただそれだけのことなの。…本当に」
三上はの哀願するような口調とそれに対照的な強い瞳に促されるままにゆっくりと頷いた。
「わかる。俺も…」
三上は俺がこれを言うのもどうなんだろう、と迷って一瞬口を閉じかけたけれど、思い切って続けた。
「…あの駅にお前を迎えにいくまで忘れてたし」
予想に反して、がにこりと笑った。三上はその笑顔をみて、ああ、今ではもう本当に大丈夫なのだ、と確信してほっと息をついた。同時に、自分の中に長い間わだかまっていた罪悪感も少し薄らいで、心が軽くなった気がした。
「それにね、今の中学にいけて本当によかったなって最近思うの」
金魚をちょうちんの明かりにかざして見つめながら、が言った。
あれは、だいたい2年前。小学校6年の、3学期。は4年生の終り頃から塾に通い始めて、中学受験を目指していた。志望校が武蔵森だと聞いたのは、俺が武蔵森にスポーツ推薦でいけると決まったすぐ後だった。その頃はもう、お互いに話したりすることなんてほとんどなくなっていたから、その情報も母親伝いに聞いた話だった。そしてその後、武蔵森に提出する書類があって、それを提出した帰りに偶然、あの駅でに会ったのだ。それが、あの駅の思い出の一回目。なんでも、下見にきたのだと、そう言っていた。二回目は、合格発表だった。どういう気がまわったのか、は、俺に一緒にきてほしい、と頼んできたのだ。断る理由もなかったし、俺は一緒に出かけた。結果は、まあ…一言で言ってしまえば不合格、だった。帰り道、頼まれて繋いだ手の、握った手の強さを、今でも覚えている。あいつは泣きもせず、恨み言も言わず、ただ黙って俺の手を握りしめた。泣き虫だった、あいつが。俺には、一粒の涙も見せなかった。俺は何もしてやれなかったし、言ってやれなかった。自分はもう武蔵森に決まってしまったのだという、変な後ろめたさも手伝って。一体あいつがいつから武蔵森を受験すると決めたのかは知らないけれど、少なくとも俺よりは多分ずっと前で、そのためにずっと勉強してきたのだ。わかってはいた、そんな事を考えるべきでないという事は。けれど、多分それがだったから、考えずにはいれなかったのだ。それからすぐ、俺は逃げるようにして家をでて行った。あいつは、第二志望の女子校へ進学した。多分これが、俺たちのわだかまりの一つの要因であったと、そう思う。いや、少なくとも三上自身の。
それにしても、何故は合格発表に俺を連れて行ったのだろう、それが今でも不思議でたまらない。
けれどだからといって、それを簡単に口に出せる三上ではない。
「私さー」
相変わらず金魚を見つめたまま、何かをふっきるような明るさでが言った。三上はその声にはっと回想から我に帰って、慌てて相槌を打った。
「あんまり感情を持続できないみたい。悲しみとか、悔しさとか、怒りとか、…いろいろ。すぐ忘れちゃう」
ねー?同意を求めるように、は金魚に向かって首をかしげて見せた。その横顔を見つめて、三上はゴクリと唾を飲んだ。意味深なの台詞に何か形にならない不安な気持ちが、胸の奥でゆっくりと広がっていくのを感じたのだ。
なんで突然そんなこと…?
……じゃあ、愛情は?
ヒュー―ーーーーーー……ドドドドン
時刻は19時00分。胸をよぎった疑問は、けれど、その時タイミング良く上がった花火の打ち上げ音と歓声にいとも簡単に流されてしまった。
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